名前のない警告
「えー、本日は皆さんに、どうしても伝えておかなければならないことがあります」
全校集会。
蒸し暑い体育館には、千人近い生徒の熱気と、かすかな床のワックスの匂いが充満していた。
校長先生のマイクを通した声が、スピーカーから割れ気味に響く。
「最近、登下校中のマナーについて、近隣の方々からお叱りを受けることが増えています」
いつもの定型文だ。
俺はあくびを噛み殺した。
隣の列の健太は、既に立ったまま寝ている器用な技を披露している。
昨夜の結愛の騒ぎで少し寝不足気味の俺も、意識が半分飛びかけていた。
どうせまた買い食いするなとか、自転車の並走はやめろとか、そんな些末な小言だろう。
そう思っていた。
「特に」
校長の声のトーンが、一段低くなった。
ざわついていた生徒たちが、敏感にその変化を感じ取り、静まり返る。
「近隣の他校の生徒とのトラブルが報告されています」
ピクリと俺の眉が動いた。
「挑発に乗らないこと。関わりを持たないこと。君たちは進学校の生徒としての自覚を持ち、常に冷静に行動してください。……いいですね?」
校長は具体的な学校名は出さなかった。
だが、その言葉の裏には、明確な警告が含まれていた。
『あいつらに関わるな』
『レベルの低い連中に構うな』
そんな選民意識と、厄介事を避けたい大人たちの保身が見え隠れする。
(……やっぱり、あそこか)
俺の脳裏に、昨日の朝の光景がフラッシュバックした。
今にも倒れそうだった細い体。
不健康な白い肌。
そして、あの淡い青色のシャツ。
東岸高校。
この地域で唯一、偏差値の底が抜けていると言われる高校。
校長の言う「トラブル」の相手が彼らであることは、ここにいる全員が想像に難くなかった。
俺は自分の腕をさすった。
昨日、あの少女を支えた時の感触が、まだ残っているような気がした。
あの鋭い目つき。
『触んな、優等生』という拒絶の言葉。
俺は知らず知らずのうちに、地雷原のど真ん中に足を踏み入れていたのかもしれない。
もしあの子が、ただの不良じゃなくて、もっとヤバいグループの一員だったとしたら?
もし俺の顔を覚えられていたら?
「……おい湊」
集会が終わり、教室へ戻る列の中で、目が覚めた健太が小声で話しかけてきた。
「聞いたか今の? 東岸の奴ら、最近マジで荒れてるらしいぜ」
「……らしいな」
「こないだも駅前で、ウチの1年がカツアゲされそうになったとか。やっぱあいつら、野蛮人だよなー」
健太は他人事のように笑っている。
それが普通の反応だ。
俺たちは安全な檻の中にいて、外の獣たちを笑っていればいい。
でも、俺は笑えなかった。
俺だけが、その「野蛮人」の体温を知っている。
そして、あの一瞬見せた少女の瞳の奥にあったものが、単なる暴力衝動だけではないような気がしてならなかった。
孤独。あるいは、助けを求めるような切迫感。
結愛の抱える闇とは違う、もっと乾いた、荒涼とした世界。
「……関わらないのが一番だよな」
俺は自分に言い聞かせるように呟いた。
学校という聖域。
美咲ちゃんとの甘い時間。
そして、ようやく戻ってきた結愛との姉弟としての平穏な日々。
それらを守るためには、境界線の向こう側を覗いてはいけない。
俺は廊下の窓から見える、遠くの街並みを睨みつけた。
そこには、見えないけれど確実に存在する青いシャツの領域が広がっていた。




