表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

70/191

名前のない警告

「えー、本日は皆さんに、どうしても伝えておかなければならないことがあります」


 全校集会。

 蒸し暑い体育館には、千人近い生徒の熱気と、かすかな床のワックスの匂いが充満していた。

 校長先生のマイクを通した声が、スピーカーから割れ気味に響く。

「最近、登下校中のマナーについて、近隣の方々からお叱りを受けることが増えています」


 いつもの定型文だ。

 俺はあくびを噛み殺した。

 隣の列の健太は、既に立ったまま寝ている器用な技を披露している。

 昨夜の結愛の騒ぎで少し寝不足気味の俺も、意識が半分飛びかけていた。

 どうせまた買い食いするなとか、自転車の並走はやめろとか、そんな些末な小言だろう。

 そう思っていた。


「特に」

 校長の声のトーンが、一段低くなった。

 ざわついていた生徒たちが、敏感にその変化を感じ取り、静まり返る。

「近隣の他校の生徒とのトラブルが報告されています」


 ピクリと俺の眉が動いた。

「挑発に乗らないこと。関わりを持たないこと。君たちは進学校の生徒としての自覚を持ち、常に冷静に行動してください。……いいですね?」

 校長は具体的な学校名は出さなかった。

 だが、その言葉の裏には、明確な警告が含まれていた。

『あいつらに関わるな』

『レベルの低い連中に構うな』

 そんな選民意識と、厄介事を避けたい大人たちの保身が見え隠れする。


(……やっぱり、あそこか)

 俺の脳裏に、昨日の朝の光景がフラッシュバックした。

 今にも倒れそうだった細い体。

 不健康な白い肌。

 そして、あの淡い青色のシャツ。

 東岸高校。

 この地域で唯一、偏差値の底が抜けていると言われる高校。

 校長の言う「トラブル」の相手が彼らであることは、ここにいる全員が想像に難くなかった。


 俺は自分の腕をさすった。

 昨日、あの少女を支えた時の感触が、まだ残っているような気がした。

 あの鋭い目つき。

『触んな、優等生』という拒絶の言葉。

 俺は知らず知らずのうちに、地雷原のど真ん中に足を踏み入れていたのかもしれない。

 もしあの子が、ただの不良じゃなくて、もっとヤバいグループの一員だったとしたら?

 もし俺の顔を覚えられていたら?


「……おい湊」

 集会が終わり、教室へ戻る列の中で、目が覚めた健太が小声で話しかけてきた。

「聞いたか今の? 東岸の奴ら、最近マジで荒れてるらしいぜ」

「……らしいな」

「こないだも駅前で、ウチの1年がカツアゲされそうになったとか。やっぱあいつら、野蛮人だよなー」

 健太は他人事のように笑っている。

 それが普通の反応だ。

 俺たちは安全な檻の中にいて、外の獣たちを笑っていればいい。


 でも、俺は笑えなかった。

 俺だけが、その「野蛮人」の体温を知っている。

 そして、あの一瞬見せた少女の瞳の奥にあったものが、単なる暴力衝動だけではないような気がしてならなかった。

 孤独。あるいは、助けを求めるような切迫感。

 結愛の抱える闇とは違う、もっと乾いた、荒涼とした世界。


「……関わらないのが一番だよな」

 俺は自分に言い聞かせるように呟いた。

 学校という聖域。

 美咲ちゃんとの甘い時間。

 そして、ようやく戻ってきた結愛との姉弟としての平穏な日々。

 それらを守るためには、境界線の向こう側を覗いてはいけない。

 俺は廊下の窓から見える、遠くの街並みを睨みつけた。

 そこには、見えないけれど確実に存在する青いシャツの領域が広がっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ