監視の死角
「ただいま……」
俺は恐る恐る玄関のドアを開けた。
昨日は甘やかされたが、今朝は書き置き一枚だった。
彼女の機嫌はジェットコースターのように乱高下する。
今の彼女は「冷徹な同居人」か、それとも「優しい姉」か。
俺が身構えながら靴を脱ごうとした、その時だった。
「湊くん! グッジョブ!!」
バァン! とリビングのドアが勢いよく開き、結愛が飛び出してきた。
彼女は満面の笑みで、俺の目の前にビシッと親指を突き立てていた。
「……は?」
俺はフリーズした。
「ぐ、グッジョブ……?」
「そう! ナイスファイト! いやー、最高だったよ!」
彼女は俺の肩をバンバン叩き、腹を抱えて笑い出した。
「あははは! まさかあんなオチが待ってるなんて! 傑作すぎるよ!」
「ちょ、ちょっと待て結愛! 何の話だ!?」
俺は混乱の極みにあった。
いきなりのハイテンション。
そして身に覚えのない称賛。
彼女は目尻に浮かんだ涙を指で拭いながら、悪戯っぽく俺を見上げた。
「とぼけないでよ。……ショッピングモールでのデートのことだよ」
「……ッ!?」
心臓が跳ね上がった。
「なんで……知って……」
「見たからに決まってるじゃん」
彼女はケラケラと笑い続けた。
「特に最後! 湊くんが調子に乗って、美咲ちゃんに『そろそろ怒るよ?』って脅されてるところ! あの美咲ちゃんの黒い笑顔、最高だったわー!」
「み、見てたのか……!?」
「うん。バッチリ特等席で」
背筋に冷たいものが走る。
怖い。
俺たちがベンチで話していたあの瞬間、どこかから彼女が見ていたというのか?
またGPSか? 盗聴か?
俺の脳裏に、かつての結愛の影がよぎった。
だが。
「あー、面白かった。湊くん、タジタジだったね〜」
目の前で無邪気に笑う彼女を見て、俺の中の恐怖はすぐに霧散してしまった。
(……笑ってる)
ここ数日の、あの能面のような冷たさはない。
「家族ごっこ」の演技でもない。
昔のような、俺をからかって楽しむ、明るくてちょっと意地悪な「お姉ちゃん」が帰ってきたのだ。
その事実が、俺にはどうしようもなく嬉しかった。
監視されていた怖さよりも、彼女が俺に関心を持ってくれている喜びの方が、遥かに勝ってしまったのだ。
「で、でもさ。結愛、今日は仕事だったんじゃ……?」
俺は喜びを噛み締めながらも、冷静な部分で疑問を口にした。
「仕事中に俺たちのデートを見てたのか?」
「まさか。サボりじゃないよ?」
彼女は冷蔵庫から麦茶を取り出し、グラスに注ぎながら言った。
「今日は初出勤だったんだけど、研修だけで早上がりだったの。で、職場の先輩に『買い物付き合ってよ』って誘われて、たまたまあのモールに行ってたんだ」
「職場の……先輩?」
「そうそう。すっごくいい人なんだけど、買う物決めるのが遅くてさ〜。ブラブラしてたら、ベンチでイチャついてるバカップル発見! ってわけ」
彼女はウィンクした。
「声かけようかと思ったけど、美咲ちゃんが放送禁止用語連発してたから、怖くて近寄れなかったよ〜。あはは!」
「……なんだ、そうだったのか」
俺は心の底から安堵した。
偶然だ。
たまたま職場が近くて、たまたま先輩と買い物に来ていて、たまたま見かけただけだ。
ストーカーでも何でもない。
「先輩ってどんな人なんだ?」
「んー? ちょっと変わった人かな。でも頼りになるよ」
彼女はふふっと笑い、意味深に付け加えた。
「湊くんも、そのうち会えるかも、ね?」
「ま、とにかく! 今日は湊くんの新しい一面も見れたし、美咲ちゃんの意外な才能も知れたし、いい一日だったな!」
結愛は上機嫌で夕食の準備を始めた。
「今日は奮発してステーキ焼いちゃう! お祝いだね!」
「何の祝いだよ……」
「湊くんが尻に敷かれる才能を開花させたお祝い♡」
「うるせぇ!」
キッチンから漂う肉の焼ける匂い。
リビングに響く結愛の鼻歌。
俺はソファに沈み込み、この温かい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
幸せだ。
昨日の「甘やかし」よりも、今日のこの「からかい」の方が、俺にとっては日常が戻ってきた証のように思えて心地よかった。
だが、俺は気づいていなかった。
彼女の言う「職場の先輩」が、俺のよく知る人物である可能性を。
そして、「そのうち会える」という言葉が、明日という近未来を指していることを。
俺は満たされた気持ちで、スマホのカレンダーを眺めた。
明日は全校集会がある。
少し面倒だけど、今の俺なら何でも乗り越えられそうな気がしていた。




