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すぐさま応用

「えっ、東岸高校の人に絡まれたの!?」


 教室に着くなり、俺は美咲ちゃんに今朝の出来事を話した。

 彼女は目を丸くし、心配そうに俺の腕や顔を覗き込んだ。


「大丈夫? 怪我はない? あの高校の人たち、怖いって噂だよ……?」

「あ、ああ。大丈夫だよ。向こうがフラフラしてたのを支えただけだし」


 俺は彼女の純粋な心配に心が温かくなった。

 やっぱり美咲ちゃんは優しい。

 結愛のような裏表もないし、健太のような闇も感じさせない。

 俺はこの安心感に浸りながら、ついうっかり口を滑らせてしまった。


 「それにさ、最初は男かと思ったんだけど……顔見たら女の子だったんだよな。なんかこう、目つきは怖かったけど、綺麗な顔立ちしててさ……」

「……」

「あんな細い体で喧嘩とかしてるのかなぁ。制服も着崩しててさ、ボタン開けすぎてて……」


 ピタリ。

 美咲ちゃんの相槌が止まった。


「……湊くん?」

「ん?」

「その人、女の子だったんだ?」


 彼女の声のトーンが、心配の色から、少し湿り気を帯びた低いものに変わった。


「あ、うん。スラックス履いてたから分かんなかったけど」

「ふーん……。支えたってことは、抱きとめたってことだよね?」

「いや、まあ倒れそうだったから咄嗟に……」

「綺麗な顔立ちだったんだ?」

「えっ」


 やばい。

 美咲ちゃんの瞳からハイライトが消えている。

 頬を膨らませ、唇を尖らせている。

 可愛いけれど、明らかに「嫉妬」のサインだ。


「ち、違うよ! 客観的な事実として言っただけで、俺には美咲ちゃんしか……!」

「もう。湊くんのバカ」


 美咲ちゃんはプイと顔を背けた。

 その拗ねた仕草さえも愛おしいが、今はご機嫌を取らなければならない。


「ごめんって。機嫌直してよ、美咲ちゃん」


 俺が彼女の顔を覗き込もうとした、その時だった。

 ふと、教室の入り口の方へ視線が流れた。

 廊下の窓越しに、誰かが立っているのが見えた。

(……え?)

 長い黒髪。

 陶器のように白い肌。

 雪乃宮怜だ。

 彼女は廊下を歩いている途中だったようだが、ふと足を止め、無表情で教室の中――正確には、俺と美咲ちゃんが痴話喧嘩をしている様子を、じーっと見つめていた。

(うわ、見られてた……)

 昨日の物理の授業でのクールな彼女とは違い、今は何というか、動物園のパンダでも見るような、純粋な観察者の目だ。

 気まずい。

 非常に気まずい。


 「……湊くん?」

 俺の視線が自分から外れたことに気づき、美咲ちゃんが再び不満げな声を上げた。


「また上の空? 今度はどこ見てるの?」

「あ、いや……」


 俺が慌てて視線を戻そうとするより早く、美咲ちゃんは俺の視線の先を追った。

 そして、廊下で立ち尽くしている「学年一の美少女」と目が合った。


 「……ッ!!」

 美咲ちゃんの肩が跳ねた。

 雪乃宮怜。

 才色兼備、論理の化身。

 そんな彼女が、なぜか俺たちのことを(というより俺のことを)じっと見ている。

 美咲ちゃんの脳内で、何かがスパークした音が聞こえた気がした。

 東岸高校の不良娘に続き、今度は校内の高嶺の花。

 美咲ちゃんの頬が、さっきよりもさらに大きく膨らんだ。

 嫉妬ゲージが限界突破している。


「み、美咲ちゃん、違うんだ! あれはただの……!」


 俺が弁解しようとした時、廊下の雪乃宮さんがハッとしたような顔をした。

 彼女は俺と美咲ちゃんの殺伐とした空気を感じ取り、そして自分の視線がその原因の一端を担っていることに気づいたらしい。

 (……しまった)

 口が動いたわけではないが、彼女の表情がそう語っていた。

 いつも冷静沈着な彼女の瞳が、焦りで泳いでいる。


『観測者効果』。

 昨日、彼女自身が言った言葉だ。

「見る」という行為が、対象(俺たちカップル)の状態を悪化させてしまった。

 彼女はバツが悪そうに視線を逸らすと、逃げるように早歩きで廊下の向こうへと去っていった。

 その背中は、「ごめんなさい、変数増やしちゃいました」と言わんばかりに小さくなっていた。


 「……湊くん?」

 目の前には、さらに疑念を深めた美咲ちゃんが、ジト目で俺を見上げている。


「雪乃宮さんと、どういう関係?」

「えーっと……物理の授業で席が隣で……」

「それだけ?」

「それだけです! 誓って!」

「……ふーん。怪しい!」


 彼女は俺の袖をギュッと掴んだ。

「今日の放課後、埋め合わせしてもらうからね?」

「は、はい! 喜んで!」


 俺は冷や汗を拭った。

 東岸高校の少女。

 雪乃宮怜。

 そして愛ゆえに嫉妬深い美咲ちゃん。

 さらに家には結愛がいる。

 俺の周りの人間関係が、急激に複雑な方程式を描き始めていることに、俺はめまいを覚えていた。

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