不穏な淡い青色
翌朝。
目が覚めると、家の中はしんと静まり返っていた。
昨夜の過剰なまでの甘やかしの余韻で、体は羽が生えたように軽い。
「……結愛?」
リビングに降りるが、彼女の姿はない。
代わりとしてダイニングテーブルの上に、ラップのかかった完璧な朝食プレート(ベーコンエッグとサラダ)と、一枚のメモ用紙が置かれていた。
『おはよう、湊くん。
今日から新しい仕事に行ってきます。
朝ごはんはちゃんと食べてね。
いってらっしゃい。お姉ちゃんより』
丸文字と、最後に添えられたニコちゃんマーク。
「仕事か……」
「秘密の仕事」ってやつだ。
一体何をするのか教えてくれなかったが、少なくとも今日は朝から顔を合わせずに済んだ。
俺は安堵と、昨夜の甘い時間の喪失感がないまぜになった複雑な気分で、冷めたベーコンを口に運んだ。
(まあ、いいか。今日も平和に過ごそう)
俺は身支度を整え、誰もいない家に「行ってきます」と告げて外へ出た。
通学路。
朝の陽射しは眩しいが、空気は少し湿り気を帯びていた。
駅へと続く大通りを歩いていると、前方に奇妙な動きをする人影が見えた。
「……ん?」
ふらっ、ふらっ。
まるで幽霊か、朝帰りの酔っ払いのように、千鳥足で歩いている生徒がいる。
危ない。
そう思った瞬間、その足がもつれ、体が大きく傾いた。
「っ、危ない!」
俺は咄嗟に駆け出し、地面に激突する寸前でその体を支えた。
ガシッ。
細いけれど、芯のある重みが腕にかかる。
「大丈夫……か?」
声をかけながら、俺は視界に入ってきた相手の制服に違和感を覚えた。
(……この色)
ワイシャツの色だ。
普通の高校は白が一般的だ。俺たちの高校もそうだ。
だが、腕の中にあるシャツは白ではない。
水色よりもさらに薄い、洗剤が落ちきっていないような淡い青色。
その色を見た瞬間、俺の背筋が凍った。
知っている。
この地域で、唯一この色のシャツを採用している高校がある。
県立東岸高校。
偏差値が著しく低く、喧嘩やバイク通学が日常茶飯事という、この辺りでは有名な「底辺校」だ。
俺たちある程度の進学校の生徒とは、住む世界が違う人種。
関わってはいけない。目を合わせてもいけない。
それが、この地域の「常識」だった。
(やばい……)
俺は支えてしまったことを後悔した。
相手がもし、イカつい不良だったら? 因縁をつけられたら?
「あ、あの……俺、急ぐから……」
俺は慌てて手を離そうとした。
関わりたくない。
見なかったことにして、逃げたい。
しかし、俺が手を引こうとしたその時。
支えられていた人物が、ゆっくりと顔を上げた。
「……あ?」
低い声。
そして、俺を射抜くような鋭い視線。
(男……じゃない?)
履いているのは、男子用のズボンだ。
シャツのボタンもかなり開けている。
だが、その顔立ちはどう見ても男ではなかった。
整っているが、あまりに目つきが悪い。
切れ長の瞳は刃物のように鋭く、目の下には不健康なクマがある。
髪は無造作に束ねられているが、首筋の白さは女性のものだ。
彼女は俺の腕を乱暴に振り払い、ふらつきながらも自分の足で立った。
「……触んな、優等生」
吐き捨てるような言葉。
その瞳には、感謝の色など微塵もなく、ただ「敵意」だけがギラギラと燃えていた。
彼女はズボンのポケットに手を突っ込み、俺を睨みつけたまま、あくびを噛み殺した。
淡い青色のシャツが、朝の光の中で不吉に揺れている。
俺は動けなかった。
結愛の冷たさとも、健太の抱える闇とも違う。
もっと直接的で、暴力的な匂いのする恐怖が目の前に立っていた。




