解凍される家庭
「ただいま……」
俺は身構えながら玄関のドアを開けた。
昨日までの冷え切った空気。
無視される痛み。
それらを覚悟して、俺は重い扉を押し開けた。
「あ! おかえりなさーい、湊くん♡」
パッと視界が明るくなった。
エプロン姿の結愛が、まるで忠犬のように玄関で待ち構えていたのだ。
「え、あ、結愛……?」
「はい、鞄ちょうだい! 重かったでしょ〜?」
俺が何か言う前に、彼女は俺の手からスクールバッグを奪い取った。
「あ、いや、自分で……」
「いいのいいの! 湊くんは今日、すっごく頑張ったんだから!」
彼女はニコニコと笑いながら、俺のブレザーを脱がせにかかる。
「ほら、腕抜いて。……うん、いい子」
手際が良すぎる。
俺はされるがままに上着を剥ぎ取られ、ネクタイを緩められた。
「お風呂、もう沸いてるよ。今日は湊くんの好きな柚子の入浴剤入れたから、まずはさっぱりしてきて?」
「え、でも俺、」
「ダメ。風邪引いちゃうでしょ? ほら、行ってらっしゃい!」
背中をグイグイと押される。
その手は温かく、拒否権なんて存在しなかった。
風呂から上がると、そこはレストランだった。
「いい匂いでしょ! 上がるタイミング完璧だね!」
リビングのテーブルには、俺の好物ばかりが並んでいた。
ハンバーグ、エビフライ、ポテトサラダ、そして湯気を立てるコーンスープ。
昨日のコンビニパンが嘘のような光景だ。
「さ、座って座って! ビール……はまだ早いから、コーラで乾杯しよ!」
結愛は俺を椅子に座らせると、氷の入ったグラスにコーラを注いだ。
シュワシュワと泡立つ音。
「は、はい……」
俺は完全に毒気を抜かれていた。
昨日の「家族ごっこ」の演技とも違う。
今日の彼女からは、純粋な「労い」と、爆発的な「上機嫌」が感じられる。
「はい、あーん♡」
「えっ」
「ほら、ハンバーグ! 肉汁たっぷりだよ?」
フォークが口元に突きつけられる。
「いや、自分で食えるって……」
「んー? 湊くん、お姉ちゃんの手料理、嫌い?」
彼女が小首を傾げる。その瞳は潤んでいて、断ればこの世の終わりのように悲しみそうだ。
「……いただきます」
俺は観念して口を開けた。
「ん〜♡ おいし?」
「……美味い」
「よかったぁ! じゃあ次はエビフライね! タルタルソースたっぷり!」
次々と口に運ばれる御馳走。
俺は咀嚼することに精一杯で、「なんで急に優しくなったんだ?」と聞く隙間さえ与えられなかった。
「ふぅ……食った……」
満腹になり、俺がソファで牛になっていた時だ。
「湊くん、こっち来て」
結愛がソファの後ろに回り込み、俺の頭を優しく抱え込んだ。
「え、何?」
「髪、まだ濡れてるよ。乾かしてあげる」
ブォォォォ……。
ドライヤーの温風が心地よく頭皮を撫でる。
結愛の細い指が、俺の髪を梳いていく。
「……気持ちいい?」
耳元で囁かれる甘い声。
「あ、ああ……」
抗えない。
胃袋を満たされ、風呂で温まり、さらにこの極上のヘッドスパだ。
俺の思考回路は完全にショートしていた。
「湊くんの髪、指通り良くて好きだな〜」
彼女は楽しそうに鼻歌を歌っている。
「ちょっと癖でくるんってなって、ふわふわ感あるのもかわいい」
今の彼女は、ただの「優しいお姉ちゃん」だ。
以前のようなドロドロした執着も、昨日までの冷徹な無視もない。
ただひたすらに、俺を甘やかし、肯定し、包み込んでくれる。
「……なあ、結愛」
ドライヤーの音が止まった一瞬の静寂。
俺はどうにか理性を総動員して、口を開いた。
「どうして今日は、こんなに……」
「んっ」
俺の唇に、結愛の人差し指が押し当てられた。
「シーッ」
彼女は俺の顔を覗き込み、悪戯っぽく微笑んだ。
「理由は聞かないの。……今日はただ、湊くんを労いたかっただけ」
「労うって……何を?」
「色々と、ね」
彼女は意味深に笑うと、俺の額にチュッとおやすみのキスを落とした。
「明日はきっと、もっと忙しくなるから。……今のうちに充電しておいてね?」
「え?」
「はい、おしまい! さ、歯磨いて寝よ!」
彼女はパンと手を叩き、俺をソファから立たせた。
「おやすみ、湊くん。いい夢見てね」
彼女はスキップでもしそうな足取りで、自分の部屋へと戻っていった。
残された俺は、甘いバニラの香りと、体中に残る心地よい疲労感に包まれたまま、呆然と立ち尽くした。
明日は忙しくなる?
充電?
彼女の言葉の意味を考えるよりも先に、強烈な睡魔が襲ってきた。
まあいいか。
今日は平和だった。
健太も無事だったし、美咲ちゃんとも過ごせたし、結愛も機嫌が良かった。
俺は久々に深い眠りにつくことができた。




