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光合成の成果

「おーい湊! 生きてるかー?」

 ホームルーム前の短い休み時間。

 教室に戻ると、健太とゴリが生物室から帰還していた。

「おう。そっちはどうだったんだよ、酸素ボンベ」

 俺は努めていつも通りのトーンで声をかけた。

「バッチリだぜ! 顕微鏡で葉緑体がグルグル動いてるの見て感動したわ! 俺の細胞も活性化した気がする!」

 健太は腕を回し、元気よくアピールする。

 その袖口から覗く手首に、古傷やアザがないか。

 俺の目は無意識にそこを探そうとしていた。


(……ダメだ)


 俺は心の中で首を横に振った。

『変数を変えないで』

 雪乃宮さんの言葉がリフレインする。

 俺が探偵のように傷を探せば、それは健太を「被疑者」にしてしまうことになる。

 俺は視線を彼の目に戻し、呆れたようにため息をついた。

「お前の脳細胞も活性化してくれればいいのにな」

「うっせ! 物理の数式で頭ガチガチになったお前よりマシだっつーの!」

「なんだと?」

 俺たちは小突き合い、笑い合った。

 健太の笑顔に曇りはない。

 俺が「普通」でいる限り、彼も「普通」でいられる。

 その共犯関係のような安らぎが、今の俺には心地よかった。


 放課後。

 俺は美咲ちゃんの当番に合わせて、図書室へ向かった。

「あ、湊くん。来てくれたんだ」

 カウンターの中で、美咲ちゃんが貸出カードの整理をしていた。

 夕日が差し込む図書室は、埃さえも金粉のように輝いている。

「手伝おうか?」

「ううん、もう終わるから大丈夫。……座ってて?」

 彼女は嬉しそうに微笑むと、手際よく作業を片付けていく。


 俺は近くの閲覧席に腰掛け、適当な雑誌を広げた。

 静かだ。

 ページをめくる音と、遠くから聞こえる吹奏楽部の練習の音。

 この穏やかな時間。

 昨日の夜、家で感じていた孤独や、今朝の健太への焦燥感が嘘のように溶けていく。

「お待たせ!」

 作業を終えた美咲ちゃんが、俺の向かいの席に座った。

「お疲れ様。……なんか、落ち着くな、ここ」

「でしょ? 私の特等席なんだ」

 彼女は机に突っ伏して、上目遣いで俺を見た。

「湊くん、今日はなんか……顔色がイイね」

「え? そうか?」

「うん。昨日はなんか、ずっと眉間に力が入ってたけど……今は優しい顔してる」

 彼女の指先が、俺の眉間に触れる。

「心配事がなくなった?」

「……まあ、な」

 俺は健太のことは言わず、ただ彼女の手を握り返した。

「美咲ちゃんのおかげかもな」

「えへへ。ならよかった」

 俺にとっての「定数」は、きっと彼女なのだ。

 彼女がこうして笑ってくれるだけで、俺の世界は正常に回る。


 下校時刻。

 昇降口で、俺たちは健太たちと合流した。

「よう、ラブラブカップル! 一緒に帰ろうぜ!」

「うるせーよ。お前らは部活ないのか?」

「今日はオフだ! 帰ってゲームするんだよ!」

 俺たちは四人で並んで歩いた。

 他愛もない会話。

 テレビの話、次のテストの愚痴、夏休みの予定。

 そして、運命の分かれ道である交差点に差し掛かった。


「じゃあな! 俺とゴリはこっちだ」

 健太が手を振る。

 この先には、彼の「地獄」がある。

 帰ればまた、あの暴力的な父親が待っているかもしれない。

 俺の喉元まで、『大丈夫か?』という言葉が出かかった。

 もし今日、何かあったら。

 もし明日、あいつが来なかったら。


(……違う)


 俺はグッと拳を握りしめ、その言葉を飲み込んだ。

 俺が言うべき言葉は、同情でも心配でもない。

 明日も変わらず、ここでお前を待っているという「約束」だ。


「おう、また明日な! 遅刻すんなよ!」

 俺は声を張った。

「宿題写させろよ!」

「自分でやれバーカ!」

 健太はニカッと笑い、夕闇の中へと消えていった。

 その背中は小さかったけれど、決して弱々しくはなかった。

 あいつは戦っている。

「普通」という武器で、日常を守るために。

 なら、俺も戦わなきゃいけない。


「行こっか、湊くん」

 美咲ちゃんが俺の袖を引いた。

「……ああ」

 俺たちは手を繋ぎ、それぞれの「家」へと向かって歩き出した。

 俺もまた、結愛が待つ家へ帰らなければならない。

 でも、今の俺には学校という聖域と、守るべき日常がある。

 それだけで、足取りは昨日よりもずっと軽かった。

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