フィルター
キーンコーンカーンコーン。
物理の授業終了を告げるチャイムが鳴った。
「……では、今日の講義はここまで」
先生が教科書を閉じ、生徒たちがざわざわと片付けを始める。
隣の雪乃宮さんも、流れるような動作で筆記用具をケースに収めていた。
「あのさ、雪乃宮さん」
俺は意を決して声をかけた。
「……少しだけ、変なこと聞いてもいい?」
彼女は手を止め、長い睫毛を上げて俺を見た。
「変なこと? 物理の質問じゃなくて?」
「ああ。……人間関係の、仮定の話だ」
俺は視線を机の上の木目に落とした。
「もし、友達の家庭環境がすごく悪かったら……暴力を受けてたり、酷い扱いを受けてたりしてて。それを知ってしまったら、雪乃宮さんならどうする?」
俺は言葉を選びながら続けた。
「その友達は、学校では普通に振る舞ってるんだ。明るくて、バカやってて。でも、それを知ってから……俺の中で、喉に小骨が刺さったみたいに、ずっと何かが引っかかってるんだ。本当はそこまで深刻ではないのかもしれない。けれど、今まで通り接してるつもりでも、どこか演技じみてしまうというか……」
健太の笑顔。
昨日のラーメン屋での告白。
そして今朝の完全勝利という言葉。
それらが俺の喉奥で、鋭い棘となって疼き続けている。
「どう向き合えばいいのか、わからなくて」
雪乃宮さんは、俺の話を静かに聞いていた。
相槌も打たず、同情の言葉も挟まず、ただ事実だけを抽出するように。
そして、少し考え込むように細い指を顎に当てた。
「……物理の時間だったから、物理で答えるわね」
彼女は黒板の方を指差した。
「『観測者効果』って知ってる?」
「え? いや……」
「見るという行為そのものが、対象の状態に影響を与えることよ。……貴方のその『棘』の正体は、貴方が彼を『被害者』として観測し始めたことによる違和感ね」
彼女は淡々と言った。
「今まで貴方は、彼を『対等な友人』として見ていた。でも今は『可哀想な被害者』というフィルター越しに見ている。……だから、喉に棘が刺さるのよ。貴方の視線が変わってしまったから」
図星だった。
俺は健太を心配しているようで、心のどこかで「あいつは可哀想な奴だ」と見下し、腫れ物を触るように扱っていたのかもしれない。
「彼が明るく振る舞っているのはなぜだと思う?」
「それは……心配かけたくないから、とか?」
「それもあるでしょうけど、一番は『そこが聖域だから』じゃないかしら」
彼女は俺の目を真っ直ぐに見つめた。
「家という地獄から逃れて、唯一『普通の高校生』でいられる場所。それが学校であり、貴方の隣なんでしょう。……なのに、貴方が彼を『被害者』として扱ったら、その聖域はどうなる?」
「……壊れる」
俺は思わず呟いた。
「正解」
彼女は小さく頷いた。
「貴方が気を使って優しくしたり、同情したりすればするほど、彼は『自分は普通じゃない』と再確認させられる。貴方のその『棘』を抜こうとして行動することは、彼にとっての救いじゃなく、トドメになる可能性があるわ」
彼女はカバンを持ち立ち上がった。
「だから、答えはシンプルよ。……『何もしない』こと」
「何もしない……?」
「ええ。徹底的に、今まで通り。バカな話をして、笑って、雑に扱う。彼が助けを求めてくるまでは、貴方は『何も知らないフリ』を貫き通すの。……それが一番難しくて、残酷で、でも一番誠実な『向き合い方』だと私は思うわ」
彼女は最後に、ふっと微笑んだ。
それは計算された「サービス」の笑顔ではなく、どこか儚げな、素の表情に見えた。
「変数を変えないで。貴方だけは、彼にとっての『定数』でいてあげなさい」
そう言い残し、彼女は長い黒髪をなびかせて教室を出て行った。
残された俺は、しばらくその場から動けなかった。
「定数、か……」
喉の棘が消えたわけではない。
でも、その棘の痛みをどう処理すればいいのか、少しだけ道筋が見えた気がした。
俺は深く息を吐き、彼女のいなくなった空間に向かって小さく「サンキュ」と呟いた。
しかし、彼女が「何もしないこと」と言ったときに、一瞬その顔が陰ったように見えたのは気のせいなんだろうか。




