孤独な選択科目
「じゃあな湊。俺たちはグリーンな世界へ旅立つぜ」
「は?」
移動教室の準備をしていると、健太が教科書を片手にキザなポーズを決めた。
「生物だよ生物! 今日の実験は葉緑体の観察らしいからな」
彼は窓から差し込む日光を浴びて、大きく両手を広げた。
「俺も光合成して、地球に酸素を供給してやるから感謝しろよ!」
「お前が吐き出すのは二酸化炭素と無駄話だけだろ」
「なんだとぉ! 酸素ボンベと呼べ!」
「行くぞ健太。遅れると顕微鏡のいいやつ取られるぞ」
ゴリが呆れ顔で健太の襟首を掴んだ。
「うおっ、待てゴリ! 俺はまだ光合成の途中だァァ……!」
ドナドナのように引きずられていく健太。
「じゃあな湊、物理頑張れよー!」
廊下の向こうへ消えていく二人を見送り、俺は苦笑しながら物理の用意をした。
「……平和だな」
あいつらのおかげで、今日の学校生活は本当に楽しい。
物理の授業は、複数のクラスが合同で行う選択科目だ。
場所はいつもの教室ではなく、少し広めの講義室。
席は自由だ。早い者勝ち。
俺は少し早めに到着し、ベストなポジションを確保した。
「……ここだな」
廊下側、前から3列目。
前すぎて先生と目が合うこともなく、後ろすぎてサボっていると思われることもない、絶妙な「モブ位置」だ。
俺は一人で受けているため、いつも隣は空席になることが多い。
周りは仲の良いグループで固まっているが、俺はこの孤高の時間が嫌いではなかった。
教科書を開き、静かに予鈴を待つ。
物理の無機質な数式と法則の世界は、複雑な人間関係に疲れた俺の頭を冷やすのにちょうどいい。
チャイムが近づくにつれ、少しずつ生徒が入ってきた。
「ここ空いてる?」
「うん、いいよー」
ざわざわと席が埋まっていく。
俺の周りも埋まり始めたが、予想通り俺の隣だけはポッカリと空いていた。
(よし、今日もくっつけて広々と使えるな)
俺がシャーペンを回しながら、黒板の方を見ていた時だった。
スッ。
音もなく、誰かが俺の机の横に立った。
そして、微かに香る、凛とした冷たい花の香り。
(……え?)
いつもの汗臭い男子の匂いでも、美咲ちゃんの甘いお菓子の匂いでもない。
俺が顔を上げるより早く、その人物は俺の隣の椅子を引いた。
「……ここ、いいかしら」
鈴を転がしたような、涼やかで落ち着いた声。
俺は驚いて横を見た。
そこにいたのは、艶やかな黒髪を腰まで伸ばした、陶器のように白い肌を持つ少女だった。
「ゆ、雪乃宮……さん?」
思わず声が出た。
雪乃宮怜。
体育祭でもその名を轟かせた、学年でも有名な才女であり、近寄りがたいオーラを放つ「高嶺の花」だ。
彼女は俺の方をチラリと見ると、長く美しい睫毛を伏せて小さく頷いた。
「ええ。……座っても?」
「あ、ああ。どうぞ」
俺が慌てて教科書を自分の領域に引き寄せると、彼女は「失礼」と短く言い、静かに着席した。
背筋がピンと伸びている。
制服の着こなしに一ミリの乱れもない。
(なんで……?)
物理選択者は他にもいる。女子グループの席だって空いているはずだ。
それなのに、なぜわざわざ俺の隣に?
俺は動揺して、視線を泳がせた。
彼女はもう前を向いて、ノートを広げている。
その横顔はあまりに美しく、そして冷ややかで、話しかけるなという結界を張っているようだった。
いつもなら空席の空間に、圧倒的な質量を持った「美」が存在している。
頭の中をさまよっていた健太たちの「光合成」というアホな単語が、一瞬で彼方へ消え去った。
俺は緊張でシャーペンを握る手に汗をかきながら、物理の授業が始まるのを待つしかなかった。




