平和が一番
「ったく、あいつまた先生に怒られるんじゃねーか?」
俺たちは苦笑しながら、男子更衣室の引き戸をガララッと開けた。
中には既に着替えを済ませた生徒たちがたむろしている。
制汗スプレーの白煙と、男の汗の匂い。
その奥に、いるはずのない男が立っていた。
「お、湊! ゴリ!」
ジャージ姿の健太だ。
「は? お前、購買に並んでるんじゃ……」
俺が呆気にとられていると、健太は涙目になりながら突進してきた。
「聞いてくれよぉ〜! お前らぁ〜!!」
「うおっ!?」
ドスッ!
健太が俺の首に腕を回し、暑苦しいハグをしてきた。
「な、なんだよ! 離せって!」
「暑苦しい! 汗つく!」
俺が暴れるが、健太はガッチリと抱きついたまま離さない。
その力強さ。
体の熱。
(……なんだ、元気じゃん)
俺の頭の片隅にあった「アザだらけでうずくまっている健太」という最悪の想像図は、この鬱陶しいスキンシップによって粉砕された。
「ちきしょー! あと一歩だったんだよ!」
健太は俺たちを解放すると、悔しそうに地団駄を踏んだ。
「購買の列に並ぼうとした瞬間、生活指導の鬼瓦に見つかったんだよ! 『おい、貴様そこで何をしている』って!」
「ぶっ、ダッセェ!」
ゴリが吹き出した。
「で、首根っこ掴まれて『授業に出ろ』って説教されて強制送還だよ! せっかくお前らの分も確保する完璧なプランだったのに!」
「なるほどな。で、俺たちを驚かそうとして急いで着替えたってわけか」
「そ! 教室戻ったらお前らいないから、ダッシュで着替えて待ってたんだよ」
健太は「へへん」と鼻の下を擦った。
その動きはいつも通り軽快で、どこかを痛めているような素振りは微塵もない。
「ま、ドンマイ。購買は逃したけど、お前が無事でよかったよ」
俺が本音を漏らすと、健太はキョトンとして、すぐにニカッと笑った。
「なんだよ湊、俺に惚れてんのか? 悪いけど俺は」
「うっせ、バーカ」
「フッフッフ……甘いな、お前ら」
不意に、ゴリが不敵な笑みを浮かべて腕組みをした。
「あ? なんだゴリ、腹減りすぎて頭おかしくなったか?」
「俺には見えるぞ……焼きそばパンが」
ゴリは虚空を見つめ、恍惚とした表情を浮かべた。
「夢の中でな、俺は既に購入を済ませている。この右手に感じるズッシリとした重量感……ソースの香り……紅生姜の酸味……」
彼は何も持っていない右手を愛おしそうに見つめている。
「俺は、俺は今、焼きそばパンを頬張っているのだ……ぐはは」
「……行こうぜ、健太」
「だな。関わると感染るぞ」
俺と健太は顔を見合わせ、ヤバい奴を見る目で頷き合った。
俺たちは更衣室を出て、グラウンドへと続く廊下を歩き出した。
「おい待てよ! 俺の焼きそばパンの話はまだ終わっていない!」
数歩後ろを、ゴリがブツブツと独り言を言いながらついてくる。
「ぐはは……美味い、美味いぞ……」
その巨体がニヤニヤしながら空気を咀嚼している姿は、端的に言ってホラーだった。
「……ねえ、あれ」
「うわ、何あれキモっ」
すれ違った女子生徒たちが、露骨に顔をしかめて距離を取っていく。
「関わらないようにしよ……」
「逃げよ、逃げよ」
サーッと潮が引くように女子たちが避けていく。
「あーあ、ゴリの奴、完全に不審者扱いじゃん」
健太がケラケラと笑う。
「お前が原因だけどな」
「まあまあ! 結果オーライっしょ!」
初夏の風が吹き抜ける。
隣を歩く健太は、ジャージの袖を捲り上げ、楽しそうに笑っている。
その腕にはアザ一つない。
俺は眩しい日差しに目を細めた。
大丈夫だ。やっぱり俺の考えすぎだった。
俺たちは普通の高校生で、バカな話をして、体育の授業に向かっているだけなんだ。
「よーし! 今日のサッカー、俺ハットトリック決めちゃうもんねー!」
健太は親指と人差し指で輪を作り、眼鏡のように顔に当てる。
「はいはい、口だけは達者だな」
俺たちは軽い足取りで、光の溢れるグラウンドへと飛び出していった。




