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中和されない不安

 三時間目、化学。

 事件は静かに起きた。

「えー、この水溶液のpHを求めるには、水素イオン濃度を……」

 先生の眠気を誘う声が響く理科室。

 授業が始まって20分ほど経った頃、健太が手を挙げた。

「先生、トイレ」

「ん、ああ。早めに戻りなさい」

 健太は少し顔色が悪いようにも見えたが、いつものようにダルそうに立ち上がり、理科室を出て行った。


 しかし。

 チャイムが鳴り、授業が終わる時間になっても、健太は戻ってこなかった。

 空席になったパイプ椅子。

 机の上に置かれたままの教科書とノート。

(あいつ、どうしたんだ?)

 今までは授業をサボることはあっても、こんな風に荷物を置いたまま消えることはなかった。

 俺の胸に、朝の重たい不安が再び鎌首をもたげる。

 昨日の今日だ。

 トイレで倒れてるんじゃないか?

 それとも、親父さんが学校に来て連れ戻されたんじゃ……?


「うわー、マジ意味わかんねぇ。logとか数学でやれよな」

「ねー。今回のテスト範囲、エグくない?」

 休み時間になり、クラスメイトたちは口々に化学への不満を漏らしている。

「pH計算……全然わかんなかった……」

 前の席の美咲ちゃんも、教科書を抱えて困り顔だ。

 普段なら「俺が教えてやるよ」と格好つけるところだが、今の俺にそんな余裕はなかった。

 俺は美咲ちゃんに曖昧に頷くと、震える手でポケットからスマホを取り出した。


 画面を点灯させる。

 通知が一件。

 表示された名前は『健太』。


『わりぃ湊。腹痛いフリして抜け出した』

『今日の焼きそばパン戦争、俺が一番乗りで並んで勝利を掴む。お前らの分も確保するから感謝しろ』


 文面には、サムズアップをしたふざけたスタンプが添えられていた。


 俺の口から、乾いた笑いが漏れた。

(なんだよ、それ……)

 心配して損した。

 あいつ、トイレに行ったフリして、次の昼休みの購買バトルのために授業を抜けたのか。

 確かに、限定の焼きそばパンは激戦区だ。授業をサボって並ぶ奴がいてもおかしくない。

「まったく……バカだなぁ、あいつは」

 俺はスマホをポケットにしまい、大きく息を吐いた。

 胸のつかえが取れた気がした。

 やっぱり健太は健太だ。俺が勝手に深刻ぶって、ドラマの見過ぎだっただけだ。


「おい湊! 何ニヤけてんだよ」

 後ろからゴリに背中を叩かれた。

「健太の野郎、またサボりか?」

「ああ。焼きそばパンの列に並んでるってさ」

「マジかよ! あいつ最高だな!」

 ゴリは豪快に笑い、俺の肩を組んだ。

「よっしゃ、俺たちも行くぞ! 次は体育だ。遅れるとまた走らされるぞ!」

「わかってるよ。……美咲ちゃん、行ってくる」

「うん、頑張ってね」

 美咲ちゃんに手を振り、俺たちは教室を出た。


 更衣室へと続く渡り廊下。

 初夏の風が吹き抜ける。

 俺の足取りは軽かった。

 健太の確保した焼きそばパンを楽しみにしていたから。

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