違和感
目が覚めた時、最初に脳裏をよぎったのは、結愛のことでも美咲ちゃんのことでもなかった。
『あいつ、生きてるか?』
昨晩のラーメン屋での、健太の乾いた笑顔。
闇の中へ消えていった友人の姿が、朝の光の中でも黒い染みのようにこびりついて離れなかった。
いつもなら、結愛の機嫌を伺いながら食べる朝食も、今日は上の空だった。
味もしなければ、結愛が部屋から出てこないことへの安堵感も薄い。
俺の頭の中は、最悪の想像で埋め尽くされていた。
もし、今日あいつが学校に来なかったら?
もし、顔を腫らして登校してきたら?
あるいは……ニュースになるような事態になっていたら?
俺は逃げるように家を出て、重い足取りで学校へと向かった。
教室に入ると、そこはいつもの朝の喧騒に包まれていた。
だが、俺の視線は一直線に窓際の後ろから二番目の席へ向いた。
空席だ。
鞄もない。
「……おい、湊」
声をかけられ、振り返るとゴリが立っていた。
彼もまた、いつものような覇気がない。眉間に深い皺を刻み、腕組みをして健太の席を睨んでいた。
「……来てねえな」
「ああ」
「メッセージ、既読つかねえんだよ。昨日の夜から」
ゴリが小声で囁く。
俺もスマホを確認したが、俺が送った『大丈夫か?』というメッセージに既読マークはついていなかった。
「遅刻か? それとも……」
「言うな」
俺はゴリの言葉を遮った。口に出すと、それが現実になりそうで怖かったからだ。
チャイムまであと5分。
クラスメイトたちは笑い合っている。誰も健太の席が空いていることなど気にしていない。
それが普通だ。昨日の告白を聞くまでは、俺もそうだった。
あいつは「ちょっと性格の悪い、でも憎めないお調子者」で、悩みなんてなくて、毎日楽しそうに生きている奴だと信じていた。
知らなかったのは俺たちだけだ。
あいつが毎日、どんな思いで家に帰り、どんな顔で「普通」を演じていたのかを。
予鈴が鳴った。
担任が廊下を歩いてくる足音が聞こえる。
(……来ない)
ダメか。やっぱり昨日の夜、何かがあったんだ。
俺とゴリが絶望的な顔を見合わせた、その時だった。
ガララッ!!
教室のドアが勢いよく開いた。
「セーフッ!!」
大声と共に飛び込んできたのは、息を切らした健太だった。
「あぶねー! 二度寝して遅刻するところだったわ!」
彼はカバンを肩にかけ、いつものようにふざけたポーズで教室に入ってきた。
「お、おい健太!」
俺とゴリは椅子を蹴倒す勢いで彼に駆け寄った。
「お前、大丈夫か!?」
「親父さんに……その、やられたんじゃ……」
俺は彼の顔を凝視した。
頬にアザはない。
口元も切れていない。
見える範囲の首筋や腕にも、暴力の痕跡は見当たらなかった。
綺麗なものだ。いつも通りの、少しニキビがあるだけの男子高校生の肌。
「……は? 何が?」
健太はきょとんとして俺たちを見た。
「あー、昨日のこと? 心配しすぎだっての!」
彼はニカッと笑い、俺の背中をバシッと叩いた。
「親父、俺が帰った時にはもう酔いつぶれて寝てたわ! だから完全勝利! ノーダメージ!」
「そ、そうか……」
「よかった……マジで心配したんだぞ」
ゴリが深く息を吐き、へなへなと座り込んだ。
俺も全身の力が抜けるのを感じた。
最悪の事態は免れた。あいつは無事だ。
殴られてもいないし、元気そうだ。
「だーかーら、言ったろ? 俺たちは普通の高校生なんだから、そんなドラマみたいなことなんねーって」
健太は笑いながら自分の席につき、教科書を出し始めた。
俺はその横顔を見つめた。
本当によかった。
……本当に?
俺の中に、小さな棘のような違和感が残った。
『酔いつぶれて寝ていた』
それは本当か?
もしそうだとしても、あんなに切迫していた彼が、朝起きてLINEの一つも返さなかったのはなぜだ?
それに、彼の制服。
いつもは少し着崩しているのに、今日は第一ボタンまでしっかりと留め、袖口もきっちりと伸ばしている。
まるで、服の下にある何かを隠すかのように。
「ほら湊、席つけよ。センコー来んぞ」
健太が俺を見てウィンクした。
その笑顔は完璧だった。
あまりにも完璧すぎて、俺は逆に背筋が寒くなるのを感じた。
「……ああ」
俺は頷き、自分の席へと戻った。
安堵はした。けれど、俺の目にはもう、彼が今まで通りの「明るい健太」には見えなくなっていた。




