普通という名の病
「ういー、歌った歌った!」
カラオケ店を出ると、夜の街はネオンで煌めいていた。
喉を枯らした俺たちは、その足で駅裏の古びたラーメン屋の暖簾をくぐった。
「いらっしゃい!お!クソガキじゃねぇか!こんな遅くに珍しいな!」
威勢のいい店主の声と、獣臭い豚骨の匂い。
「おっちゃん!ラーメン大盛り、硬めで!」
「俺もそれで」
「俺は全部乗せだ!」
食券を買い、油で少しベタつくカウンターに並んで座る。
湯気で眼鏡が曇るのを笑い合いながら、俺たちは熱々の麺を啜った。
腹に溜まる脂と炭水化物が、カラオケで消費したエネルギーを暴力的に満たしていく。
「あー、生き返るわー……」
健太が丼の底が見えるほどスープを飲み干し、プハッと息を吐いた。
彼のテンションは、カラオケの時よりもさらに高く、どこか切れ味が鋭くなっていた。
「にしてもさー、お前ら知ってる? うちの親父」
健太が割り箸を弄りながら、唐突に切り出した。
「釣り好きの親父さんだろ?」
俺が答えると、彼はケラケラと笑った。
「そうそう。釣った魚を捌くのが趣味なんだけどさ、機嫌悪いと俺のことも捌こうとすんだよねぇ」
「...どういうこと?」
俺とゴリの手が止まった。
「殴る蹴るは当たり前、時には吸殻が飛んでくる。昨日なんてさ、ビールが冷えてないってだけでちゃぶ台ひっくり返されてさ。俺の参考書、醤油まみれになっちった」
健太はまるでテレビの笑い話でもするかのような軽い口調だった。
「だから俺、毎日ちっさい反抗してんの。親父のカバンにどんぐり入れたり、焼酎を水でめちゃくちゃ薄めたり。……地味だろ?」
彼はニカッと笑ったが、その目の奥は笑っていなかった。
「で、今日はその集大成。『夜遅くまで遊び歩く』っていう、俺史上最大の大反抗ってわけよ」
「おい健太……それ、帰ったらヤバいんじゃねえか?」
ゴリが心配そうに眉を寄せた。
「親父さん、今頃キレて待ってんじゃ……」
「かもなー。ボコボコにされるかも」
健太はあっけらかんと言った。
「でもさ、もうここまで来たら変わんねーよ。5分遅刻しようが、2時間遅刻しようが、回数が2増えるか3増えるかの違いだし?」
場の空気が重くなる。
俺は言葉を失った。
いつもクラスのムードメーカーで、馬鹿ばかりやっている健太が、そんな地獄のような家に住んでいたなんて。
俺の家なんて、可愛く思えるほどの暴力的な支配。
「……今日は俺ん家に泊まるか?」
ゴリが提案した。
「それなら親父さんも手出しできねえだろ」
しかし、健太は首を横に振った。
「いいっていいって。それにさ」
彼は財布を取り出し、千円札をカウンターに置いた。
「もう帰らなきゃ。……俺たち、『普通』の男子高校生だろ?」
その言葉に、俺は違和感を覚えた。
「……え?」
「門限破ったり、外泊したりするのは不良のすることだ。俺たちは健全で、平凡で、どこにでもいる普通の高校生なんだからさ。……ちゃんと家に帰って、親に怒られて、明日も学校に行かなきゃダメだろ?」
彼は震える手で小銭を数え始めた。
「早く帰ろうぜ。明日もテスト勉強あるし、補習も受けなきゃだし。……普通に、普通にしなきゃ」
最後の方はもはや囁きに等しかった。
健太のその姿は、まるで「普通」という呪文を唱えて、自分を保とうとしているようだった。
異常な日常に身を置きながら、そこから逃げ出すこともせず、「自分は普通だ」と言い聞かせることで、辛うじて精神の均衡を保っている。
普通であること。
それが彼にとっての、唯一の救いであり、同時に彼を縛り付ける鎖でもあった。
「……そうだな」
俺はそれ以上、何も言えなかった。
「ご馳走様でした!」
健太は努めて明るい声で店主に挨拶をし、店を出た。
その背中は、カラオケの時よりもずっと小さく、そして歪んで見えた。
「普通」にしがみつく彼の姿は、結愛の支配に怯えながらも家に戻ろうとする俺と、どこか重なって見えた。




