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他人の秘密

 シン、と静まり返ったリビング。

 時計の針が動く音さえ聞こえてきそうだ。

 俺はダイニングテーブルの隅で、冷蔵庫にあった残り物を食べていた。

 昨日の、あの華やかな御馳走の残骸。

 冷え切った煮物は味が濃く、レンジで温めたご飯は部分的に硬くなっている。

「……いただきます」

 小声で呟いても、返事はない。

 結愛は自分の部屋に籠もったきりだ。

 父さんは仕事でまた出張に行った。

 つまり、この家はまた「他人行儀な同居人」との冷戦状態に戻ったわけだ。

 モグ、モグ。

 自分の咀嚼音だけが響く。

 美味しい。だけど寂しい。

 美咲ちゃんとのデート中、あれほど帰りたかった家が、今はこんなにも居心地が悪い。

 無視されることの辛さ。

 空気のように扱われることの惨めさ。

 俺は箸を置き、耐えきれずに立ち上がった。

「……話そう」

 このままじゃダメだ。

 俺の精神が持たない。

 俺は食器をシンクに置き、吸い寄せられるように結愛の部屋へと向かった。


 コンコン。

 ノックをするが、返事はない。

 以前なら甘い声が聞こえたはずなのに。

 俺は意を決してドアノブを回した。

「……結愛、ちょっといいか」

 部屋の中は、間接照明で薄暗かった。

 結愛はデスクに向かい、パソコンの画面を見つめていた。

 耳には高性能そうなノイズキャンセリングイヤホン。

 俺が入ってきたことに気づいているのかいないのか、彼女はキーボードを叩く手を止めない。

「おい、結愛」

 俺は近づき、彼女の肩を軽く叩いた。

 ビクッ、とはしなかった。

 彼女はゆっくりと手を止め、鬱陶しそうに眉をひそめて振り返った。

 そして、片方のイヤホンを乱暴に外した。

 「……何? 今、忙しいんだけど」

 その声は低く、他人に話しかけるような冷たさだった。

「あ、いや……これからの生活のこと、ちゃんと話したいと思って」

 俺がしどろもどろに言うと、彼女は「はぁ」と大きな溜息をついた。

「生活のことなら、私のことは気にしないでって言ったよね? 食事も洗濯も、自分のことは自分でやるから」

「そうじゃなくて! ……その、何してるんだよ」

 俺は会話を繋ぐために、ふと目に入ったパソコン画面のことを聞いた。

 画面には、何やら難しそうな書類やメールが並んでいる。


「仕事」

 俺が怪訝な顔をした後、ああ、と納得したように頷いた。

「就職の準備だよ。ほら、私、来月から働くことになったから」

「……は?」

 俺は耳を疑った。

「は、働くって……バイト?」

「違うよ。正社員。……っていうか、湊くん知らなかったっけ?」

 彼女は椅子をくるりと回し、呆れたように俺を見た。

「私、もう大学卒業してるんだけど」

「えっ」

 思考が停止した。

「だ、大学……? 卒業……?」

「そう。まぁ、色々あってさ。去年の秋にはもう卒業資格取ってたの。だから今は、いわゆる既卒の就活生だったわけ」

 彼女はサラリと言ってのけた。

「てっきり俺と同じ高校生だと……」

「ぷっ。湊くん、私のことJKだと思ってたの? 童顔だからってナメすぎでしょ〜」

 彼女は鼻で笑った。

 衝撃だった。

 見た目の若さと、制服が似合いそうな雰囲気、そして何より俺への子供っぽい執着のせいで、完全に同年代だと思い込んでいた。

 彼女は俺よりずっと年上の、立派な「大人」だったのだ。

 「資格はいっぱい持ってるし、語学もできるから、仕事には困らなかったよ。ただ、場所と条件を選んでただけで」

 彼女はパソコンを閉じ、伸びをした。

「ようやく、私の希望通りの職場に行けることになったの。だから忙しかったんだよね」

 俺の知らない結愛。

 ハイスペックで、社会的地位があって、俺の手の届かない場所にいる彼女。

 その事実が、今の俺たちの精神的な距離をさらに広げていくようだった。


 「そ、そうだったんだ……すごいな、結愛」

 俺は圧倒されながらも、なんとか言葉を絞り出した。

「で、どんな仕事なんだ? IT系とか?」

「んー?」

 彼女は小首を傾げ、悪戯っぽく唇に人差し指を当てた。

「ひ・み・つ」

「えっ」

「守秘義務があるからね〜。湊くんにはまだ言えないなぁ」

 彼女は立ち上がり、俺の方へゆっくりと歩み寄ってきた。

 さっきまでの冷たさが嘘のように、その瞳には妖しい光が宿っている。

 「でもね、湊くん」

 彼女は俺の目の前で止まり、背伸びをした。

 顔が近づく。

 バニラの香りが鼻腔をくすぐる。

 彼女の唇が、俺の耳元に寄せられた。

 「これから、頑張ろうね? ……色々と」

 ゾクリ。

 背筋に電流が走った。

 その「頑張ろう」は、新しい仕事への意気込みなのか。

 それとも、俺との関係における、新たな「ゲーム」の始まりを告げる合図なのか。

 意味深な響きを含んだその囁きに、俺は身動きが取れなくなった。

 彼女は満足そうに微笑むと、再びイヤホンを耳に戻し、俺に背を向けた。

「それじゃ、邪魔しないでね。弟くん」

 拒絶と誘惑。

 大人と子供。

 俺は完全に翻弄されながら、彼女の部屋を後にするしかなかった。

 結愛が何の仕事に就いたのか。

 その秘密が、俺の生活を根底から覆すことになるなんて、この時の俺は知る由もなかった。

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