砂の味
放課後。俺と美咲ちゃんは駅前のファミレスにいた。
「あ、このアップルパイ美味しい! 湊くんも一口食べる?」
美咲ちゃんがフォークに刺したパイを、笑顔で差し出してくる。
「あーん」
周囲の客の視線など気にも留めず、彼女は幸せオーラ全開だ。
本来なら、天にも昇る気持ちでパクつく場面だ。
「……あ、ああ。ありがとう」
俺は引きつった笑顔でそれを受け入れた。
甘いシナモンの香りと、サクサクの生地。
確かに美味しいはずだ。
けれど、俺の脳裏には、今朝の光景が焼き付いて離れなかった。
昨夜の、父がいなくなった瞬間の結愛の冷たい目。
テーブルに放り投げられていたコンビニのパン。
あの殺伐としたリビングの空気が、口の中の甘さを瞬時に消し去り、代わりに砂を噛んでいるようなジャリジャリとした不快感を残していく。
「……どう? 美味しい?」
「う、うん。すごく」
嘘だ。味がしない。
俺は喉奥にパイを無理やり流し込み、水を飲んだ。
「それでね、今度の図書委員の展示なんだけど……」
美咲ちゃんが楽しそうに学校の話をしている。
俺は相槌を打ちながら、テーブルの上に置いたスマホに目を落とした。
画面は真っ暗だ。
通知ランプも光っていない。
以前なら、この時間帯はLINEの嵐だった。
『今どこ?』『誰といるの?』『早く帰ってきて』
スタンプ連打と、GPS情報のスクリーンショット。
鬱陶しくて、怖くて、スマホの電源を切りたくなるほどだった。
今はどうだ。
最後に結愛から連絡が来たのはいつだ?
「今日お父さんが早く帰る」という業務連絡以来、履歴は更新されていない。
俺が今、誰と何をしていても、彼女は興味がないのだ。
それが自由なはずなのに、俺はまるでリードを外された犬のように、不安で何度も画面をタップして時刻を確認してしまう。
(今、家に帰ったらどうなってる? またあの冷たい目で見られるのか? それとも、俺の洗濯物だけ雨ざらしにされてたりして……)
ネガティブな想像ばかりが膨れ上がる。
「……湊くん?」
不意に、目の前から心配そうな声がした。
ハッとして顔を上げると、美咲ちゃんがフォークを置いて俺を見つめていた。
「あ、ごめん。聞いてるよ。図書委員の……」
「聞いてないよ」
彼女は静かに首を横に振った。
「さっきからずっとスマホばっかり。……何か、急用?」
「いや、違うんだ。ただちょっと……」
「お姉さん?」
ドキリとした。
美咲ちゃんの勘は、あの日以来鋭くなっている。
「……違うよ。ただ、家のことでちょっとゴタゴタしてて」
「ゴタゴタって? お姉さんと喧嘩した?」
「喧嘩っていうか……」
説明できない。
「仲良く家族ごっこをしている裏で、ネグレクトみたいな扱いを受けている」なんて、あまりに惨めで、そして美咲ちゃんには理解不能な歪んだ悩みだ。それに非がこちらにありすぎる。
「大丈夫だよ。なんでもない」
俺は美咲ちゃんの手を握り、無理やり笑顔を作った。
「せっかくのデートなんだから、楽しもう」
美咲ちゃんの手は温かかった。
柔らかくて、優しくて、俺を求めてくれる体温。
でも、その温もりに触れれば触れるほど、俺の背中には結愛の冷たい視線が氷柱のように突き刺さる錯覚を覚えた。
「そろそろ、行こっか」
一時間ほどして、俺たちは店を出た。
「送っていくよ」
「ううん、今日はバスで帰るから大丈夫。湊くんも……早く帰らなきゃいけないんでしょ?」
美咲ちゃんは、どこか遠慮がちにそう言った。
俺の上の空な態度を見て、気を使ってくれたのだろう。
その優しさが痛い。
「ごめんな。次はもっとゆっくり……」
「うん。待ってる」
彼女は寂しげに微笑み、バスに乗り込んでいった。
一人残されたバス停。
夕闇が迫ってくる。
俺の足は、自然と家の方角へと向いていた。
帰りたくない。
あそこには、俺を空気のように扱う「他人行儀な同居人」がいるだけだ。
それなのに、俺は早歩きになっていた。
早く帰らなければ。
早く帰って、結愛の顔色を窺わなければ。
もし俺が遅く帰ることで、彼女の機嫌がさらに悪化し、父の前での「家族ごっこ」さえも放棄されたらどうしよう。
そんな強迫観念に駆られていた。
「……クソッ」
俺はアスファルトを蹴りつけた。
美咲ちゃんと一緒にいる時の安らぎよりも、結愛に無視される恐怖の方が、今の俺の心を支配している。
俺は完全に、あの姉の手のひら(あるいは、その手のひらから落とされた場所)で踊らされている。
家々の明かりが灯り始める中、俺は冷え切った我が家へと急いだ。




