表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

49/191

理想的

 翌朝。

 リビングに降りると、いつも漂っているはずの出汁やトーストの香りがなかった。

 キッチンに結愛の姿はない。

 ダイニングテーブルの上には、コンビニの袋に入った菓子パンが一つ、ポツンと置かれていた。

 皿にも盛られていない。温められてもいない。

 ただの「餌」のように投げ出されたそれを見て、俺は立ち尽くした。

 「……あ、起きたんだ」

 リビングのソファから声がした。

 結愛だ。彼女は既にメイクも着替えも済ませ、スマホを弄っていた。

「お、おはよう結愛。これ……」

「朝ごはん。私、もう食べたから」

 彼女は視線をスマホから外さずに答えた。

「あ、ああ……ありがとう」

 俺は袋を開け、乾いたパンをかじった。

 口の中の水分が奪われていく。

 水が欲しいが、冷蔵庫を開けていいのかすら躊躇われる空気だ。

「……今日、父さん早く帰ってくるって」

 不意に結愛が言った。

「え? そうなのか?」

「うん。夕飯はちゃんと作るから。遅くならないでね」

「わ、わかった」

 事務連絡。それだけだ。

 彼女は立ち上がり、「じゃ、先行くね」と俺の方を見ることなく玄関へと消えた。

 バタン。

 閉まるドアの音が、やけに冷たく響いた。


 その日の夜。

 俺が帰宅すると、信じられない光景が待っていた。

 「あ! おかえりなさーい、湊くん!」

 玄関を開けた瞬間、エプロン姿の結愛が満面の笑みで飛び出してきたのだ。

「え……?」

「もう、遅いよぉ。お父さん待ちくたびれてるんだから!」

 彼女は俺の腕を取り、グイグイとリビングへ引っ張っていく。

 そこには、久しぶりに帰宅した父がビールを片手に寛いでいた。

「おお、湊。お帰り。部活か?」

「あ、いや……ただいま」

 テーブルには、昨日とは比べ物にならないほどの御馳走が並んでいる。

 唐揚げ、刺身、煮物、サラダ。

「ほら湊くん、手洗って! ビール冷えてるうちに乾杯しよ!」

 結愛が甲斐甲斐しく俺の鞄を受け取り、背中を押す。

 その手は温かく、声は弾んでいる。

 今朝のあの冷徹な態度は何だったんだ?

 俺は混乱したまま、食卓に着いた。

 「いやぁ、結愛の料理はまた腕が上がったなぁ!」

 父が豪快に笑う。

「もう、お父さんったら大袈裟! でも、湊くんのために栄養バランス考えたんだよ? ねー、湊くん?」

 結愛は俺の皿に唐揚げを取り分けながら、ニコリと微笑みかけた。

「ほら、湊くんの好きなムネ肉。いっぱい食べてね」

「あ……ありがとう、結愛」

「どういたしまして♡」

 彼女は俺の肩に頭を預け、甘えるような仕草を見せる。

「湊くんったら最近、勉強も頑張ってて偉いんだよー。私、自慢の弟なの」

「ははは、そうかそうか! お前たちが仲良くやってくれてて、父さんも安心だ」

 父は目を細めて満足そうだ。

 完璧だ。

 どこからどう見ても、仲睦まじく、支え合っている美しい姉弟の姿。

 俺もつられて笑みを浮かべる。

 もしかして、昨日の怒りはもう解けたのか?

 やはり家族だから、父さんがいれば元通りになるのか?

 淡い期待が、俺の胸に広がり始めていた。


「ふぅ、食った食った。……じゃあ父さん、先に風呂入ってくるわ」

「はーい、ごゆっくり〜」

 一時間後。

 上機嫌な父がリビングを出て行き、脱衣所のドアが閉まる音がした。

 その瞬間だった。

 スッ。

 結愛の顔から、笑顔が消えた。

 まるでテレビの電源を切ったかのように、一瞬で「無」になった。

 彼女は俺の肩に置いていた手を払い除けるように離し、無言で食器を片付け始めた。

 「……え?」

 あまりの落差に、俺は言葉を失った。

「あ、あのさ、結愛……さっきは……」

「お父さん、喜んでたね」

 彼女は俺を見ずに、淡々と言った。

「よかったね。これで『仲の良い家族』って思ってもらえた」

「いや、そうだけど……! 俺、結愛が許してくれたのかと……」

「許す?」

 彼女は手を止め、ゆっくりとこちらを振り向いた。

 その目は、朝と同じ。

 いや、笑顔を見せた直後だけに、朝よりも遥かに冷たく、底知れない闇を感じさせた。

 「勘違いしないで。これは『家族ごっこ』。大多数の中で生きるための演技」

「……演技」

「そうだよ。お父さんを悲しませないための義務。……湊くんも合わせてくれてありがとう。助かったわ」

 彼女は事務的に礼を言うと、自分の分の食器だけを持ってキッチンへ向かった。

「あ、湊くんの分は自分で片付けてね。私、疲れたから」

 カチャリ、と食器がシンクに置かれる音。

 リビングには、まだ父が吸った煙草の匂いと、楽しげな会話の残響が漂っている。

 だが、今のこの空間は、極北の地のように凍りついていた。

 俺は食べかけの唐揚げを見つめた。

 さっきまで愛情に見えたそれは、ただの舞台装置としての小道具に過ぎなかったのだ。

 家族がいる時は天国。

 二人きりになれば地獄。

 その残酷なコントラストが、俺の精神をジワジワと締め上げていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ