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踏み抜いた地雷

「じゃあね、湊くん。今日は本当に楽しかった!」

 玄関先で、美咲ちゃんは名残惜しそうに手を振った。

 その表情は晴れやかで、満ち足りていた。

『田園交響楽』の議論(と呼ぶには俺が一方的に結愛の受け売りを語っただけだが)で、彼女の中での俺の評価は「ただの彼氏」から「理解者」へとランクアップしたようだ。

「ああ、気をつけて帰れよ」

 俺は笑顔で手を振った。

 罪悪感はある。だが、それ以上にやり遂げたという安堵感が勝っていた。

 美咲ちゃんの背中が見えなくなるまで見送り、俺は重い玄関の扉を閉めた。

 「……ふぅーーーーっ」

 長い長い溜息が出た。

 緊張の糸が切れ、どっと疲れが押し寄せてくる。

 俺はふらつく足取りで階段を上がり、自室へと戻った。


 部屋に戻り、ベッドに倒れ込もうとした時だった。

 ガチャリ。

 ノックもなしにドアが開き、結愛が入ってきた。

「お疲れ様、湊くん。上手くいったみたいだね」

 彼女は悪戯っぽく笑いながら、机の上に放置されていたあのカンニングペーパーを指差した。

「おかげさまでな。……助かったよ、結愛」

「どういたしまして。弟の恋を応援するのも、お姉ちゃんの務めですから」

 彼女は机の椅子に腰掛け、くるりと回った。

「それにしても、意外と健全なお付き合いで安心したよ」

「え?」

「だってさぁ、若い男女が密室に二人きりだよ? 何かあってもおかしくなくない?」

 結愛は胸に手を当て、ほっとしたように息を吐いた。

「もし湊くんが、美咲ちゃんに変なことしてたらどうしようって……壁の向こうで気が気じゃなかったんだから。ゾッとしたよ、本当に」

 彼女の声色は真剣だった。

「湊くんは誠実だね。手も繋いだだけだし、キスもしないし。……うん、合格」

 彼女は満足そうに頷いた。

 姉としての監視。貞操の管理。

 その言葉の端々から、「私の目の届く範囲なら許してあげる」という、支配欲の名残が見え隠れしていた。


 その時、俺の中で変なスイッチが入った。

 安堵感と、彼女に助けられたという甘え。

 そして、ここ数日の「物分かりの良い姉」という態度への油断が、俺の口を軽くしてしまったのだ。

 「はは、合格ってなんだよ」

 俺は苦笑いしながら、軽口を叩いた。

「ていうか、美咲ちゃんとのことが健全じゃないって言うならさ……」

 俺はベッドに腰掛けたまま、冗談めかして言った。

「今まで結愛が俺にしてきたことは、健全だったのかよ?」

 夜這い。過剰なスキンシップ。GPS監視。

 それらを笑い話にするつもりだった。

「昔は私も若かったからさ〜」なんて、笑って返してくれると思っていた。

 しかし。

 ピタリ。

 回転していた椅子が止まった。

 結愛の動きが、完全に停止した。

 部屋の空気が一瞬で真空になったように、音が消えた。

 「……あ」

 しまった、と思った時にはもう遅かった。

 結愛は背を向けたまま、微動だにしない。

 換気扇の音だけが、やけに大きく聞こえる。

「ゆ、結愛……?」

 俺が恐る恐る名前を呼ぶと、彼女はゆっくりと、錆びついた機械のような動作でこちらを振り向いた。

 その顔には、表情がなかった。

 笑顔もない。怒りもない。

 ただ、底知れない「虚無」だけを湛えた瞳が、俺を射抜いていた。

 冗談が通じる空気ではない。

 俺は、触れてはいけないタブーを、自らの手で掘り起こしてしまったのだ。

 背筋を冷たい汗が伝う。

 彼女の唇が、ゆっくりと動こうとしていた。

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