悪魔のノックと天使の差し入れ
「それでね、牧師先生はジェルトリュードのことを『迷える子羊』として愛しているつもりだったけど、実際は聖書を自分の都合のいいように解釈していただけだと思うの!」
美咲ちゃんの瞳がキラキラと輝いている。
普段の派手な彼女からは想像もつかないほどの作品への熱量だ。
「ジェルトリュードが開眼手術を受けて、初めて世界を見た時のあの絶望……湊くんはどう解釈した? やっぱり、想像していた『美しい世界』と、現実の『罪深い世界』のギャップに耐えられなかったのかな?」
「あ、ああ……そうだな。ギャップ、だよな」
俺の背中を冷や汗が伝う。
(やばい、何の話だ? 手術? 目が見えるようになるのか?)
俺の知識は「タイトルがカッコいい」で止まっている。ジェルトリュードというヒロインの名前すら、さっき美咲ちゃんから聞いたばかりだ。
「うんうん、深いよなー。牧師もさ、なんかこう……人間臭いっていうか?」
「そう! そうなの! 宗教的な愛と、男性としての愛の混同がこの作品のテーマだものね!」
美咲ちゃんが前のめりになる。
「特に、牧師の奥さんのアメリーの立場についてはどう思う? 彼女だけが最初から真実に気づいていたわけじゃない?」
「ア、アメリー……?」
誰だそれは。
俺の脳内検索エンジンは完全にエラーを吐いていた。
「えっと、アメリーは……その、可哀想だよな。うん、苦労人っていうか……」
語彙力が死滅していく。
美咲ちゃんの表情に、ふと疑問の色が浮かび始めた。
「……湊くん?」
まずい。バレる。
「読んでないのに適当なことを言っている」という、烙印を押されてしまう。
俺が絶望的な沈黙に飲み込まれそうになった、その時だった。
コンコン。
軽やかなノックの音が、死刑宣告寸前の空気を断ち切った。
「はーい、お茶のおかわり持ってきたよー」
ガチャリとドアが開き、結愛が入ってきた。
手にはシルバーのトレイ。湯気を立てる紅茶のポットと、新しいカップが乗っている。
「あ、すみません結愛さん……」
美咲ちゃんが慌てて姿勢を正す。
「いいのいいの。話、盛り上がってるみたいだね」
結愛はニコニコと笑いながら、美咲ちゃんの前のテーブルに、ソーサーとカップをことりと置いた。
「はい、美咲ちゃん。熱いから気をつけてね」
「ありがとうございます」
美咲ちゃんがぺこりと頭を下げ、テーブルの上のカップに視線を落とした。
その一瞬の隙だった。
「はい、湊くん」
結愛が俺の目の前に立ち、俺の分のカップを手渡してきた。
俺がそれを受け取ろうと手を伸ばすと、カップの底に何かが張り付いている感触があった。
結愛の指先が、俺の掌にスッと何かを滑り込ませる。
小さく折り畳まれた、一枚のメモ用紙だ。
「……っ」
俺が目を見開くと、結愛は一瞬だけ、誰にも見えない角度でニヤリと笑った。
そしてすぐに「完璧な姉」の顔に戻り、くるりと背を向けた。
「じゃ、ごゆっくり〜」
パタン。ドアが閉まる。
美咲ちゃんはまだ、淹れたての紅茶の香りをかいで「いい香り……」とほほ笑んでいる。
俺は手の中のメモ用紙を、太腿の上でこっそりと開いた。
そこには、結愛の几帳面で美しい文字がびっしりと並んでいた。
田園交響楽 カンペ
大まかなテーマ: 偽善と自己欺瞞。
「神の愛」を信じ込むことで、欲望から目を逸らす人間の悲劇。
牧師:善人であろうとするがゆえに、自分の欲望を最後まで認められない人物。
聖書の言葉によって自分を正当化し、結果的にジェルトリュードを追い詰める。
アメリー(妻):夫の欺瞞に早くから気づいていたが、信仰と家庭の狭間で沈黙を選んだ女性。
ジェルトリュード:盲目の間は「与えられる愛」を疑わなかったが、視力を得たことで
牧師の愛が罪であり、偽りであることを悟る。
ジャックへの真実の愛と、その不可能性を理解した末、川に身を投げ自殺しようとするが、未遂に終わる。その翌日の明け方息を引き取る。
(……すげぇ)
完璧だ。
あらすじ、キャラの相関図、そして俺が詰まっていたアメリーの立ち位置まで、まとめられている。
しかも、俺が言い回ししやすいような言葉選びまでされている。
壁の向こうで俺たちの会話を聞きながら、即座にこれを書いて持ってきたのか。
この姉、有能すぎる。
「でね、アメリーがあの時、聖書を引用して反論しなかったのはどうしてだと思う?」
美咲ちゃんが顔を上げて問いかけてくる。
俺は膝の上のカンペを盗み見た。
そこには『アメリーは信仰心よりも、家庭の崩壊を防ぐことを優先したから』という注釈まであった。
俺は深呼吸をして、自信たっぷりに顔を上げた。
「それはさ……アメリーにとっては、信仰上の論争よりも、家庭を守ることの方が重要だったからじゃないかな。彼女は現実を見据えている常識人だからさ」
「……!」
美咲ちゃんの顔がパァッと輝いた。
「そう! そうなの! 湊くん、すごい!いや、 私そこまで深く考えてなかったかも!」
「い、いやぁ、それほどでも……」
俺は冷や汗を拭った。
罪悪感はある。
あるが、今はとにかくこの場を乗り切るのが先決だ。
俺は心の中で、隣の部屋に向かって深く合掌した。
(サンキュ、結愛...!)
壁の向こうで、悪魔のような姉がクスクスと笑っている気配がした。




