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背伸びした本棚

「……あー、そうだ!」

 俺はこの重苦しい空気に耐えきれず、勢いよく椅子から立ち上がった。

「美咲ちゃん、これ見てよ」

 俺は部屋の隅にある本棚の前へと移動した。

 そこには誰もが知っているような有名漫画がぎっしりと並んでいるが、上段の隅にだけ、数冊の文庫本が並べてある。

 これは完全にインテリアだ。

 いつか読もうと思って買ったものの、最初の数ページで挫折した海外文学や、タイトルがかっこいいだけの哲学書。

 普段の俺なら漫画の話をするだろう。

 でも、今は美咲ちゃんの前だ。

 少しでも知的な彼氏だと思われたい。

 そんな浅はかな見栄が、俺の口を開かせた。

 「俺さ、漫画ばっか読んでるように見えるかもしれないけど、意外と小説も読むんだよね」

 俺は読んでいない本を指でなぞりながら、ドヤ顔で言った。

「美咲ちゃんはさ、小説とか読むの?」

 何気ない質問だった。

 会話の糸口を掴むための、ありふれた問いかけ。

 その言葉が放たれた瞬間、美咲ちゃんの肩がビクリと強張った。


 美咲ちゃんは俯いた。

 その表情が、さっきまでの「彼女」としての顔から、急に曇ったものに変わる。

 まるで、治りかけた傷口の瘡蓋を、乱暴に爪で剥がされたような、痛みと怯えが混じった顔。

 俺はその表情の変化に気づかなかった。

 頭の中はいかに自分を良く見せるか、で一杯だったからだ。

 「やっぱさ、活字っていいよな。想像力が刺激されるっていうか」

 俺はペラペラと、どこかで聞きかじったような薄っぺらい読書論を語り続けた。

 美咲ちゃんは膝の上で手をきゅっと握りしめ、視線を床に落としたままだった。

 「……うん」

 彼女は蚊の鳴くような声で答え、コクコクと小さく頷いた。

 その首の動きは、肯定というよりは、嵐が過ぎ去るのを耐え忍ぶ小動物のようだった。

 俺は彼女が他人の家にいるからだと思い込み、さらに調子に乗って言葉を続けた。


 「俺さ、特に海外の作品が好きなんだよね」

 俺は背表紙の一つを指差した。

 それは、たまたまタイトルがカッコよくて買っただけの、フランス文学だった。

 中身は難解でほとんど覚えていない。

 でも、作者の名前だけは、響きが好きで覚えていた。

 「アンドレ・ジッドとかさ。……美咲ちゃん、知ってる?」

 『狭き門』や『地の糧』で知られる、ノーベル文学賞作家。

 俺がその名前を口にした瞬間だった。

 今まで頑なに俯いていた美咲ちゃんの顔が、バッと上がった。

 「……え?」

 彼女の瞳が、俺を真っ直ぐに捉えていた。

 そこには怯えではなく、驚きと、微かな探究の色が宿っていた。

「湊くん……ジッドの作品読むの?」

「あ、ああ! 読むよ! 『狭き門』とか、深くていいよな!」

(やべ、タイトルしか知らねえけど)

 俺は冷や汗をかきながらも、精一杯の虚勢を張った。

 すると、美咲ちゃんの表情から、さっきまでの痛々しさがスゥッと消えていった。

「……私、一番好きな作家なの」

「えっ、マジ?」

「うん。特に『田園交響楽』の、盲目の少女ジェルトリュードが……」

 彼女の声に熱が帯び始めた。

 ジッドなんて名前、きちんと知ろうともしなかった。

 「そ、そうなんだ! 奇遇だなぁ!」

 俺は内心(ヤバイ、話についていけるか?)と焦りつつも、彼女が顔を上げてくれたことに安堵した。

 しかし、俺は知らなかった。

 この浅はかな嘘が、彼女の「本物を見極めたい」というスイッチを、完全に押してしまったことを。

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