悪魔のショック療法
「……なーんてね」
耳元で囁かれたその言葉と共に、首を絞め上げていた腕がパッと解かれた。
背中に感じていた熱も、柔らかい感触も、一瞬にして剥がれ落ちる。
「……は?」
俺は硬直したまま、泡だらけの手を宙に浮かせて振り返った。
そこにはいつもの、いや、ここ数日見せていた完璧なお姉ちゃんの笑顔で、ケラケラと笑う結愛が立っていた。
「あはは! 湊くん、ビビりすぎ。カエルみたいな変な声出てたよ?」
「お、お前……いきなり何なんだよ!」
「だってさぁ」
彼女は冷蔵庫を開け、ペットボトルの水を出しながら言った。
「湊くん、背中ガチガチだったんだもん。お姉ちゃんのために何かしてあげなきゃ、ってすっごい気負ってる背中してた」
「それは……」
図星だった。
オムライスを作ったのも、コーヒーを淹れようとしたのも、ここ数日の彼女のよそよそしさをどうにかしたいという焦燥感と、ある種の義務感からだった。
「だから、緊張をほぐしてあげようと思って。一回極限まで緊張させてから解放すると、人間ってリラックスするんだって。ショック療法だよ、ショック療法」
彼女は悪びれもせず、キャップを開けて水を一口飲んだ。
「私が欲しかったのはコーヒーじゃなくて、水でしたー。……じゃ、洗い物よろしくね、弟くん」
彼女はヒラヒラと手を振り、軽い足取りでリビングへと戻っていった。
まるで、弟をからかうのが大好きな、ただの茶目っ気ある姉のように。
残されたのは、ジャーという水音と、立ち尽くす俺だけ。
俺は蛇口をひねり、水を止めた。
静寂が戻ってくる。
だが、俺の心臓の音だけが、不快なほどうるさく鳴り続けていた。
「……なんだよ、それ」
俺は濡れた手で、自分の首筋に触れた。
さっきまで彼女の腕が巻き付いていた場所。
そこには、微かな熱と、甘いバニラの香りが幽霊のように張り付いている。
『なーんてね』
冗談だった。
ただの悪戯だった。
彼女は俺の気を使い、場の空気を和ませるために、あえてあんなことをしたのだ。
理屈ではわかっている。
彼女はもう、俺に執着なんてしていない。
健全で、明るい、ただの家族になったのだ。
それなのに。
俺の胸の奥底で渦巻いている、このドロドロとした黒い感情は何だ?
安堵? 違う。
怒り? それも少し違う。
(……もっと、締め付けてほしかったのか?)
脳裏に浮かんだその思考に、俺は背筋が凍った。
俺は失望していたのだ。
彼女の腕が離れてしまったことに。
あの「嘘」が、「本当」ではなかったことに。
俺は心のどこかで期待していた。
彼女が理性を失い、「やっぱり湊くんじゃなきゃダメ」と縋り付いてくることを。
俺の手料理が、彼女の仮面を完全に破壊して、またあの狂気じみた愛を引きずり出すことを。
「……気持ち悪いな、俺」
俺は自分自身への嫌悪感で吐きそうになった。
美咲ちゃんという素晴らしい恋人がいながら、俺は姉からの歪んだ執着を「餌」として求めている。
あの抱擁が嘘だったとわかった瞬間の、あの空虚感。
まるで、差し出された餌をお預けされた犬のような惨めさ。
結愛はそれを見透かして、あんなことをしたのだろうか。
それとも、本当にただの気遣いだったのだろうか。
リビングからは、テレビの笑い声と、時折混ざる結愛の笑い声が聞こえる。
その明るさが、今の俺にはひどく遠い世界の出来事のように感じられた。
俺は首に残る熱を乱暴に拭い去り、逃げるように自分の部屋へと戻った。




