背後の気配
「ごちそうさまでした」
結愛が手を合わせ、静かに箸を置いた。
皿の上は空っぽだ。ケチャップで書いた『いつもサンキュ』の文字も、黄色い卵と一緒に彼女の胃の中に消えていた。
「お粗末さまでした」
この言葉の意味はよくわからないが何となくそう言ってから、俺は立ち上がり、彼女の皿を回収した。
「あ、湊くん。私がやるよ」
「いいって。作ったついでに片付けるから。結愛は座ってテレビでも見ててくれ」
「……そう? じゃあ、お言葉に甘えようかな」
彼女は素直に引き下がり、トテトテとリビングのソファへと向かった。
テレビがつくと、バラエティ番組の笑い声が部屋に流れ始めた。
俺はシンクに向かい、スポンジに洗剤をつけた。
ジャーッ。
水流の音が、バラエティの騒音と混ざり合う。
黄色い油汚れが泡に包まれて落ちていく。
背中からは、結愛の気配が消えていた。
彼女は今、ただの同居人として、リラックスしてテレビを見ている。
これでいい。
俺が料理をして、後片付けをして、彼女を休ませる。
これこそが、対等で健全な姉弟の姿だ。
そう自分に言い聞かせながら、俺は皿を洗い続けた。
しばらくすると、背後でソファのきしむ音がした。
ペタ、ペタ。
スリッパの音が近づいてくる。
部屋に戻るのかな、と思ったが、足音はキッチンの入り口で止まったようだった。
(……喉、乾いたのか?)
オムライスは少し味が濃かったかもしれない。
俺は手元の皿を洗いながら、背後に向かって声をかけた。
「あ、そうだ結愛。棚の上に新しい豆、買っておいたぞ。あれ好きだったんだろ?」
俺は水音に負けないように、少し声を張った。
「結愛が好きな、あの店のモカブレンド。よかったら淹れようか?」
この数日、俺に対してどこか他人行儀だった彼女への、俺なりの精一杯のサービス精神だった。
喜んでくれるだろうか。
「ありがとう」という、あの淡白な返事が返ってくるだろうか。
しかし。
返事はなかった。
「……結愛?」
テレビの音だけが響いている。
聞こえなかったのか?
いや、気配はすぐ後ろにある。
数メートルの距離だ。聞こえていないはずがない。
不審に思った俺は、泡のついた手を止めて、水を出しっ放しにしたまま振り返ろうとした。
「おーい、聞こえて……」
言いかけた言葉は、物理的に塞がれた。
「……ッ!?」
ぬるり。
そんな感触と共に、白く細い腕が、俺の首に絡みついてきたのだ。
後ろから。
強く、深く。
まるで蛇が獲物を仕留める時のように、あるいは溺れる者が流木に縋りつくように。
「う、ぐ……っ」
首が締まる。けれどその力は弱い。
苦しいというよりは、熱い。
背中に、柔らかい膨らみが押し当てられる感触。
鼻孔をくすぐる、甘いバニラの香り。
それは、ここ数日俺が感じることのできなかった、結愛の体温そのものだった。
「ゆ、あ……?」
俺は身動きが取れなかった。
泡だらけの手をどうすることもできず、中腰の姿勢のまま、彼女の腕の檻に閉じ込められる。
彼女は何も言わない。
ただ、俺の首筋に顔を埋め、熱い吐息を吹きかけている。
「……」
震えているのか?
彼女の腕から伝わってくる微かな振動。
それが、俺の手料理に感動しての涙なのか、それとも抑え込んでいた何かが決壊してしまった震えなのか、今の俺には判断がつかなかった。
ただ一つ分かることは。
今、俺の背中に張り付いているのは、物分かりの良い姉なんかじゃない。
俺がよく知っている、俺を骨の髄まで愛してやまない、あの結愛の気配だった。
シンクの水が、ジャージャーと無機質に流れ続けている中、俺たちの時間だけが濃密に停止していた。




