リズムと香りの協奏曲
日曜日。結愛は買い物に出かけていて、家には俺一人だった。
静まり返ったリビング。
俺はキッチンに立った。
ここは普段、結愛の「聖域」だ。
冷蔵庫の中身も、調味料の配置も、すべて彼女が管理している。
俺は少しの背徳感と、それ以上の決意を持って冷蔵庫を開けた。
(……よし、あるな)
玉ねぎ、鶏もも肉、卵、ケチャップ。
俺が作るのはオムライスだ。
凝ったオシャレフランス料理なんて作れない。
でも、子供の頃に母さんが作ってくれたような、そして結愛がいつも俺のために愛情(と重い執着)を込めて作ってくれるような、温かいものを作りたかった。
俺は袖をまくり、手を洗う。
冷たい水が指先を締め付ける。
「やるか」
俺は独り言を漏らし、まな板を取り出した。
まずは具材の準備だ。
鶏もも肉をパックから取り出す。
ぷよぷよとした皮の感触。脂肪の部分を包丁の刃先で丁寧に取り除く。
一口大よりも少し小さめ、1.5センチ角に切り揃えていく。
サクッ、サクッ。
肉の繊維が断たれる感触が手に伝わる。
次は玉ねぎ。
茶色の皮を剥くと、艶やかな白い肌が現れる。
半分に切り、根元に切り込みを入れてから、みじん切りにしていく。
トン、トン、トン、トン。
リズミカルな音がキッチンに響く。
少し目が染みるが、構わずに包丁を動かす。
この単調な作業が、今の俺のもやもやした思考をクリアにしてくれる気がした。
フライパンを火にかける。
バターをひとかけら落とす。
ジュワァ……。
バターが溶け出し、黄金色の泡となって広がる。甘く芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。
そこに鶏肉と玉ねぎを投入する。
ジューッ!!
激しい音と共に、水蒸気が立ち上る。
木べらで混ぜ合わせる。
玉ねぎが透き通り、鶏肉の表面が白く変わっていく。
塩コショウを振る。黒い粒が具材の上で踊る。
「ここで……ケチャップか」
ご飯を入れる前に、ケチャップを入れて炒めるのがコツだと、以前テレビで見た気がする。
赤いソースを投入。
酸味が飛び、香ばしい甘い香りに変わるまで炒める。
そこへ、炊きたての白米を投入。
白い米粒が赤く染まっていく。
木べらで切るように混ぜる。
重たい感触。
フライパンを振る。
ザッ、ザッ。
赤い宝石のようなチキンライスが宙を舞い、再びフライパンへと収まる。
味見をする。
「……うん。悪くは、ないか」
濃すぎず、薄すぎず。バターのコクが効いている。
俺は一度、チキンライスを皿に取り出した。
ここからが本番だ。
卵を割る。
カコン、カコン。
ボウルに3つの卵を割り入れ、牛乳を少し加えて菜箸で切るように混ぜる。
白身と黄身が混ざり合い、滑らかなレモンイエローの液体になる。
空気を抱き込ませるように、カシャカシャと素早く混ぜる。
新しいフライパンを強火で熱し、多めの油を引く。
煙がうっすらと立つ手前。今だ。
卵液を一気に流し込む。
ジュワワァァァァッ!!
今日一番の大きな音が響く。
菜箸で大きくかき混ぜる。
外側から内側へ。固まった部分を中央へ送り込み、半熟の部分を広げる。
時間との勝負だ。
火を通しすぎればボソボソになる。早すぎれば崩れる。
(……今ッ!)
俺は火を止め、半熟のトロトロ状態になった卵を、皿に盛ったチキンライスの上へ滑らせた。
プルン。
黄色いドレスを纏ったように、卵がライスを覆い尽くす。
余熱で少しずつ固まっていく絶妙なタイミング。
「……できた」
仕上げに、乾燥パセリをパラリと振る。
鮮やかな黄色に緑が映える。
不格好ではない。むしろ、我ながら会心の出来だ。
俺は額の汗を拭い、二つの皿を並べた。
一つは俺の分。もう一つは、結愛の分。
ガチャリ。
玄関のドアが開く音がした。
「ただいまー」
結愛の声だ。
タイミングは完璧だ。
「お、おかえり」
俺はエプロン姿のまま、リビングのドアを開けた結愛を出迎えた。
「あ、湊くん。いい匂い……お昼、何か食べてたの?」
彼女は買い物袋を下げたまま、不思議そうに鼻を鳴らした。
「いや……その、作ったんだ」
「え?」
「結愛の分も。……食べるか?」
俺がダイニングテーブルを指差すと、彼女は目を丸くした。
そこには、湯気を立てる二つのオムライス。
「これ、湊くんが……?」
「ああ。いつも作ってもらってばっかだし、たまにはな」
俺は照れくささを隠すように、早口で言った。
結愛は荷物を置き、テーブルに近づいた。
オムライスをじっと見つめる。
そして、ふと俺の方を見て、困ったように、でも少し嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、湊くん。……すごく美味しそう」
「だろ? 味は保証するよ」
「うん。……あ、そうだ」
結愛は冷蔵庫からケチャップを取り出した。
「オムライスと言えば、これだよね?」
彼女は俺にケチャップを手渡した。
「え?」
「湊くんが作ってくれたんだもん。最後の仕上げも、湊くんにお願いしたいな」
彼女の瞳が、少しだけ悪戯っぽく輝いた気がした。
ケチャップで文字を書く。
それは、かつて彼女が俺への重すぎる愛を書き綴っていた儀式だ。
俺はケチャップを受け取った。
赤いチューブが重く感じる。
何を書く?
『大好き』? いや、それは違う。
『姉貴』? 味気ない。
俺は少し迷ってから、黄色い卵の上に、赤い文字を震える手で描いた。
『サンキュ』
不器用な文字。
でも、それが今の俺の精一杯の歩み寄りだった。
「……はい」
俺が差し出すと、結愛はその文字を見て、数秒間動きを止めた。
そして、長い睫毛を伏せ、小さく呟いた。
「……こちらこそ」
その声は震えていた。いや、勘違いかもしれない。
彼女は席に着き、「いただきます」と手を合わせた。
スプーンが黄色い卵を割り、赤いライスと共に持ち上げられる。
俺たちの、奇妙で静かな食事が始まった。




