禁断症状
朝、目が覚める。隣には誰もいなかった。
以前なら目覚めた瞬間に重みを感じていた。
結愛が勝手に布団に潜り込み、俺の腕を枕にして寝息を立てていたからだ。
「んー……湊くん、おはよぉ」
そんな甘ったるい声と、シャンプーの匂いがセットになった朝。
それを引き剥がし、「入ってくるなよ!」と怒ることから俺の一日は始まっていた。
けれど今はどうだ。
ジリリリ、という無機質なアラーム音で起き、一人で布団を畳む。
リビングに降りると、完璧な朝食が湯気を立てている。
「おはよう、湊くん。顔洗っておいで」
結愛はエプロン姿で微笑むが、その手には俺のスマホも、怪しい薬も握られていない。
トーストにベーコンエッグ、サラダにヨーグルト。
栄養バランスは完璧だ。
だというのに、俺はそれを砂を噛むような思いで食べていた。
(……何かが、足りない)
コーヒーに砂糖を入れ忘れたような、炭酸の抜けたサイダーを飲んでいるような。
平和だ。理想的な家庭だ。
それなのに、俺の身体のどこかが、あのアドレナリンが出るような「異常な朝」を渇望している気がしてならなかった。
風呂に入る前、俺はあえて一つの実験を試みた。
リビングのテーブルの上に、スマホを置きっぱなしにするのだ。
しかも、ロックをかけずに。
以前の結愛なら、これは「どうぞ見てください」と言っているようなものだ。
俺が風呂から上がる頃には、メッセージの履歴からブラウザの検索履歴まで全てチェックされ、「美咲ちゃんとこんなやり取りしてるんだー?」とニッコリ尋問が始まっていたはずだ。
俺はシャワーを浴びながら、少しドキドキしていた。
怒られるかな。
嫉妬されるかな。
「不用心だよ!」って叱ってくれるかな。
そんな歪んだ期待を抱きながら、俺は風呂場を出た。
いまだ濡れている髪をバスタオルでドライしながらリビングに行く。
「あ、湊くん。上がったの?」
結愛はソファでファッション誌を読んでいた。
テーブルの上には、俺のスマホが置かれたまま。
位置はミリ単位で変わっていないように見えた。
「……あのさ、結愛」
「ん? なに?」
「スマホ、見てないのか?」
俺が恐る恐る聞くと、彼女はきょとんとして首を傾げた。
「え? 見るわけないじゃん。人のスマホだよ?」
「い、いや、そうだけど……」
「プライバシーの侵害でしょ。湊くんにも秘密はあるだろうし、お姉ちゃんは干渉しないよ」
彼女は聖人のような顔で言った。
「あ、でも置きっぱなしは危ないよ? お父さんに見られちゃうかもだし」
正論だ。あまりにも正論すぎる。
彼女は俺の秘密に興味を失ったのだ。
俺が誰と連絡を取ろうが、どんなサイトを見ようが、今の彼女にとっては「どうでもいいこと」なのだ。
その事実は、俺が想定していた以上に、俺を傷つけた。
「……ここ、わかんないんだけど」
夕食後、俺は数学の参考書を持って結愛のもとへ行った。
テスト前だ。勉強を教えてもらうという名目で、少しでも彼女との接点を持とうとした。
「どれどれ? ……この形は相加相乗平均を使いたくなる形だけど、微分した方が楽だよ」
結愛はすぐに教えてくれた。
だが、その教え方は予備校の講師のように淡白だった。
以前なら。
『えー、わかんないのぉ? しょうがないなぁ』
そう言って、わざと俺の背中に胸を押し当てるように密着し、耳元に息がかかる距離で囁くように教えていたはずだ。
俺が「近い!」と赤面して離れようとすると、さらに絡みついてくる。
そんな攻防戦がセットだった。
今はどうだ。
彼女は対面に座り、ノートにスラスラと数式を書いて説明するだけ。
身体が触れ合うこともなければ、甘い匂いが漂ってくることもない。
「……わかった?」
「あ、ああ。……ありがとう」
「どういたしまして。じゃ、私もお風呂入ってくるね」
彼女はパタンと参考書を閉じ、さっさと席を立ってしまった。
残されたのは綺麗に解かれた数式と、俺一人。
(……なんだよ、これ)
わかりやすい。勉強は捗る。
でも、俺が求めていたのは正解じゃなかったのかもしれない。
あの煩わしくて、鬱陶しくて、でも体温を感じられるノイズこそが、俺の生活を彩っていたのではないか。
部屋に戻り、ベッドに寝転がる。
スマホを開くと、美咲ちゃんからメッセージが来ていた。
『まだ起きてる? 今日の数学難しかったね〜』
『今度の日曜、楽しみにしてるね!』
可愛いスタンプ。
俺は『俺も楽しみだよ』と返信する。
幸せだ。美咲ちゃんとのやり取りは、間違いなく俺の癒やしだ。
彼女は清楚、いや。少し派手な部分があるけれど、優しくて俺の理想そのものだ。
でも、スマホを置いた瞬間、ふと天井のシミが気になった。
(結愛は今、何をしてるんだろう)
美咲ちゃんとの穏やかに育まれる愛と、結愛との刺激的な日々。
俺は今まで、結愛の異常な行動を「迷惑だ」と拒絶してきた。
だが、それが一切なくなった今、俺は気づいてしまった。
あのスリル。
いつ境界線を踏み越えられるかわからない緊張感。
俺だけに向けられていた、重すぎるほどの執着。
それが、俺の自尊心を満たしていたのだと。
「……俺、最低だな」
彼女が変わろうと努力してくれているのに。
俺のために身を引いてくれているのに。
俺は心のどこかで、またあの狂った瞳で「湊くんは私だけのものだよ」などと囁かれることを期待している。
平穏な生活は退屈だ。
俺は、あの劇薬のような日々に、知らず知らずのうちに中毒になっていたのかもしれない。
静まり返った廊下を見つめながら、俺はどうしようもない渇きを覚えていた。




