幸せな教室、色のない家
「いただきます」
静かなリビングに、俺の声だけが響いた。
テーブルには、体育祭で食べられなかった重箱のお弁当が並んでいる。
唐揚げ、卵焼き、タコさんウインナー。どれも手が込んでいて、本来なら青空の下で広げられるはずだったものだ。
「どう? 味、落ちちゃったかな」
対面に座る結愛が、控えめに尋ねてきた。
「いや、美味いよ。すごく」
「よかった。……量が多いから、無理しないで残してね」
彼女は自分の分を小さく取り分け、静かに箸を進めている。
以前なら、「あーん」をしてきたり、「私の愛情たっぷりだから全部食べてね♡」と重たい台詞を吐いたりしていただろう。
だが今の彼女は、ただテレビのニュースを眺めながら淡々と食事をしている。
「……あのさ、結愛」
沈黙に耐えきれず、俺は口を開いた。
「今日の体育祭、ごめん。せっかく来てくれたのに、置いてきぼりにして」
「ううん、気にしないで」
彼女は箸を止め、柔らかく首を横に振った。
「私が勝手に行っただけだし。それに、湊くんには湊くんの『大切な人』がいたんだもんね。……邪魔しちゃってごめんね?」
その言葉に棘はない。
純粋な謝罪と、姉としての配慮が含まれているだけだ。
だからこそ、俺は胸が詰まる思いがした。
「篠原さん……美咲ちゃんとは、うまくいきそう?」
「ぶっ!」
唐突な質問に、俺は唐揚げを喉に詰まらせそうになった。
「え、あ、いや……その……」
「ふふ、顔赤いよ。そっか、名前で呼んでるんだ」
結愛は寂しげに、でも優しく目を細めた。
「よかったね、湊くん。青春、だね」
「……ああ」
それ以上、彼女は追及してこなかった。
以前ならGPS情報を持ち出して尋問してきたはずの話題が、あっさりと終わる。
この風通しの良さが、今の俺には逆に寒々しく感じられた。
その夜。
風呂から上がった俺は、自室のベッドで天井を見上げていた。
時計の針は深夜一時を回っている。
(……来ないな)
いつもなら、この時間帯は警戒レベル最大だ。
「マッサージしてあげる」「怖くて眠れない」などと理由をつけて、結愛が部屋に侵入してくるのが常だったからだ。
俺はドアノブを見た。
鍵はかけていない。
かける必要がない気がしたからだ。
廊下を歩く足音が聞こえた。
ペタ、ペタ、ペタ。
足音は俺の部屋の前で一瞬止まった。
俺は身構える。
だが、ドアが開くことはなかった。
足音はそのまま通り過ぎ、彼女の部屋のドアが開閉する音が聞こえただけだった。
「……なんだよ」
俺は大きく息を吐き出した。
これでいいはずだ。
プライバシーが守られ、安眠が保証される。
願ってもない環境だ。
なのに、どうして俺は、こんなに落ち着かないんだろう。
まるで、家のどこかに大きな空洞ができたような、妙な喪失感が胸に残ったまま、俺は眠りについた。
翌朝。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
玄関先での見送りも、あっさりとしたものだった。
ネクタイを直されることも、ハグを求められることもない。
俺は拍子抜けしたまま登校した。
学校に着けば、そこは昨日までの熱気が残る「青春」の世界だ。
「あ、湊くん! おはよう!」
教室に入ると、美咲ちゃんがパッと笑顔を向けてくれた。
「お、おはよう……美咲ちゃん」
名前を呼ぶと、彼女は嬉しそうにはにかむ。
「昨日はよく眠れた? 筋肉痛とか大丈夫?」
「平気だよ。美咲ちゃんこそ」
「私はちょっと足痛いかな。……あ、そうだ。次の移動教室、一緒に行かない?」
「うん、行こう」
クラスメイトたちが「ヒューヒュー!」と冷やかす中、俺たちは並んで廊下を歩く。
幸せだ。
夢にまで見た、普通の高校生らしい恋愛。
美咲ちゃんとの時間は色鮮やかで、ドキドキに満ちている。
けれど、放課後になり、日が傾くと、俺の足取りは重くなった。
「じゃあね、湊くん。また明日」
校門で美咲ちゃんと別れる。
ここからは、あの色のない家へ帰らなければならない。
以前のような恐怖の館ではない。
ただ静かで、清潔で、他人行儀な姉がいるだけの家。
そのギャップに、俺の心は少しずつ摩耗していた。
帰宅後、俺はリビングで勉強をしていた。
父はまだ仕事から帰っていない。
結愛はキッチンで夕食の下ごしらえをしている。
トントン、トントン。
包丁のリズムだけが響く。
「……結愛、手伝おうか?」
俺が声をかけると、彼女は手を止めて振り返った。
「ううん、大丈夫だよ。湊くんは勉強頑張って。もうすぐテストでしょ?」
「でも、悪いし」
「いいのいいの。家事は『お姉ちゃん』の仕事だし、湊くんの邪魔したくないから」
『邪魔』。
その言葉に、俺はハッとした。
彼女は気にしているのだ。自分が俺の負担になっていたことを。
だから、徹底的に黒子に徹しようとしている。
「……そこまで気を使わなくても」
「気を使ってるわけじゃないよ。これが普通だもん」
彼女は困ったように笑い、冷蔵庫から麦茶を取り出して俺の机に置いた。
「はい、これ飲んで集中してね。……私は部屋に戻るから、何かあったら呼んで?」
彼女は自分のグラスを持たず、俺の分だけを置いて、そそくさとリビングを出て行ってしまった。
残された麦茶のグラスには、水滴がついている。
二人きりの空間を避けるような態度。
以前の、あの粘着質なほどの接近が嘘のようだ。
「……普通、か」
俺はグラスを握りしめた。
確かにこれが、世間一般の「義理の姉弟」の距離感なのかもしれない。
互いに干渉せず、礼儀正しく、それぞれの生活を送る。
結愛は正しい。
間違っていたのはきっと今までだ。
それなのに、俺の中に湧き上がるこの苛立ちは何なんだろう。
俺は参考書に視線を落としたが、文字は一向に頭に入ってこなかった。




