表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

39/191

幸せな教室、色のない家

「いただきます」

 静かなリビングに、俺の声だけが響いた。

 テーブルには、体育祭で食べられなかった重箱のお弁当が並んでいる。

 唐揚げ、卵焼き、タコさんウインナー。どれも手が込んでいて、本来なら青空の下で広げられるはずだったものだ。

「どう? 味、落ちちゃったかな」

 対面に座る結愛が、控えめに尋ねてきた。

「いや、美味いよ。すごく」

「よかった。……量が多いから、無理しないで残してね」

 彼女は自分の分を小さく取り分け、静かに箸を進めている。

 以前なら、「あーん」をしてきたり、「私の愛情たっぷりだから全部食べてね♡」と重たい台詞を吐いたりしていただろう。

 だが今の彼女は、ただテレビのニュースを眺めながら淡々と食事をしている。

「……あのさ、結愛」

 沈黙に耐えきれず、俺は口を開いた。

「今日の体育祭、ごめん。せっかく来てくれたのに、置いてきぼりにして」

「ううん、気にしないで」

 彼女は箸を止め、柔らかく首を横に振った。

「私が勝手に行っただけだし。それに、湊くんには湊くんの『大切な人』がいたんだもんね。……邪魔しちゃってごめんね?」

 その言葉に棘はない。

 純粋な謝罪と、姉としての配慮が含まれているだけだ。

 だからこそ、俺は胸が詰まる思いがした。

「篠原さん……美咲ちゃんとは、うまくいきそう?」

「ぶっ!」

 唐突な質問に、俺は唐揚げを喉に詰まらせそうになった。

「え、あ、いや……その……」

「ふふ、顔赤いよ。そっか、名前で呼んでるんだ」

 結愛は寂しげに、でも優しく目を細めた。

「よかったね、湊くん。青春、だね」

「……ああ」

 それ以上、彼女は追及してこなかった。

 以前ならGPS情報を持ち出して尋問してきたはずの話題が、あっさりと終わる。

 この風通しの良さが、今の俺には逆に寒々しく感じられた。


 その夜。

 風呂から上がった俺は、自室のベッドで天井を見上げていた。

 時計の針は深夜一時を回っている。

(……来ないな)

 いつもなら、この時間帯は警戒レベル最大だ。

「マッサージしてあげる」「怖くて眠れない」などと理由をつけて、結愛が部屋に侵入してくるのが常だったからだ。

 俺はドアノブを見た。

 鍵はかけていない。

 かける必要がない気がしたからだ。

 廊下を歩く足音が聞こえた。

 ペタ、ペタ、ペタ。

 足音は俺の部屋の前で一瞬止まった。

 俺は身構える。

 だが、ドアが開くことはなかった。

 足音はそのまま通り過ぎ、彼女の部屋のドアが開閉する音が聞こえただけだった。

 「……なんだよ」

 俺は大きく息を吐き出した。

 これでいいはずだ。

 プライバシーが守られ、安眠が保証される。

 願ってもない環境だ。

 なのに、どうして俺は、こんなに落ち着かないんだろう。

 まるで、家のどこかに大きな空洞ができたような、妙な喪失感が胸に残ったまま、俺は眠りについた。


 翌朝。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい。気をつけてね」

 玄関先での見送りも、あっさりとしたものだった。

 ネクタイを直されることも、ハグを求められることもない。

 俺は拍子抜けしたまま登校した。

 学校に着けば、そこは昨日までの熱気が残る「青春」の世界だ。

「あ、湊くん! おはよう!」

 教室に入ると、美咲ちゃんがパッと笑顔を向けてくれた。

「お、おはよう……美咲ちゃん」

 名前を呼ぶと、彼女は嬉しそうにはにかむ。

「昨日はよく眠れた? 筋肉痛とか大丈夫?」

「平気だよ。美咲ちゃんこそ」

「私はちょっと足痛いかな。……あ、そうだ。次の移動教室、一緒に行かない?」

「うん、行こう」

 クラスメイトたちが「ヒューヒュー!」と冷やかす中、俺たちは並んで廊下を歩く。

 幸せだ。

 夢にまで見た、普通の高校生らしい恋愛。

 美咲ちゃんとの時間は色鮮やかで、ドキドキに満ちている。

 けれど、放課後になり、日が傾くと、俺の足取りは重くなった。

「じゃあね、湊くん。また明日」

 校門で美咲ちゃんと別れる。

 ここからは、あの色のない家へ帰らなければならない。

 以前のような恐怖の館ではない。

 ただ静かで、清潔で、他人行儀な姉がいるだけの家。

 そのギャップに、俺の心は少しずつ摩耗していた。


 帰宅後、俺はリビングで勉強をしていた。

 父はまだ仕事から帰っていない。

 結愛はキッチンで夕食の下ごしらえをしている。

 トントン、トントン。

 包丁のリズムだけが響く。

 「……結愛、手伝おうか?」

 俺が声をかけると、彼女は手を止めて振り返った。

「ううん、大丈夫だよ。湊くんは勉強頑張って。もうすぐテストでしょ?」

「でも、悪いし」

「いいのいいの。家事は『お姉ちゃん』の仕事だし、湊くんの邪魔したくないから」

『邪魔』。

 その言葉に、俺はハッとした。

 彼女は気にしているのだ。自分が俺の負担になっていたことを。

 だから、徹底的に黒子に徹しようとしている。

「……そこまで気を使わなくても」

「気を使ってるわけじゃないよ。これが普通だもん」

 彼女は困ったように笑い、冷蔵庫から麦茶を取り出して俺の机に置いた。

「はい、これ飲んで集中してね。……私は部屋に戻るから、何かあったら呼んで?」

 彼女は自分のグラスを持たず、俺の分だけを置いて、そそくさとリビングを出て行ってしまった。

 残された麦茶のグラスには、水滴がついている。

 二人きりの空間を避けるような態度。

 以前の、あの粘着質なほどの接近が嘘のようだ。

「……普通、か」

 俺はグラスを握りしめた。

 確かにこれが、世間一般の「義理の姉弟」の距離感なのかもしれない。

 互いに干渉せず、礼儀正しく、それぞれの生活を送る。

 結愛は正しい。

 間違っていたのはきっと今までだ。

 それなのに、俺の中に湧き上がるこの苛立ちは何なんだろう。

 俺は参考書に視線を落としたが、文字は一向に頭に入ってこなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ