表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

38/192

名前の魔法

「おい湊! このままカラオケ行くぞ!」

 解散の号令がかかった直後、健太が俺の首に腕を回してきた。

「クラスの打ち上げだ! ポテト食い放題だぞ!」

「そうだぞ湊! 今日の主役がいないと始まらねーだろ!」

「主役はこの俺d」

「行こうよ湊くん!」

 クラスメイトたちが口々に誘ってくる。

 心地よい誘いだ。

 このままみんなと馬鹿騒ぎをして、今日の勝利の余韻に浸っていたい気持ちはある。

 だが、俺の頭の片隅には、グラウンドから静かに去っていった結愛の後ろ姿が焼き付いていた。

 あのお弁当。重そうな三段重を持って、一人で帰った姉。

 このまま打ち上げに行けば、彼女は本当に一人ぼっちになってしまう。

 「……悪い。俺、今日はパスするわ」

 俺は申し訳なさを込めて手を合わせた。

「はぁ!? マジかよ!」

「姉貴がご馳走作って待ってるらしくてさ。……連絡もしてないし、帰らないと」

「うわー、シスコンかよー!」

「愛されてんなぁ湊!」

 みんなはブーイングしながらも、どこか温かく送り出してくれた。

「じゃあな! また明日!」

「おう、楽しんでこいよ!」

 俺は鞄を持ち、校門へと向かった。


 「……湊くん」

 校門を出ようとした時、袖をクイッと引かれた。

 振り返ると、篠原さんが立っていた。

 夕陽を背に受けて、その表情は少し陰になって見えないが、耳が赤くなっているのがわかる。

「篠原さん。打ち上げ、行かないのか?」

「うん。私も今日は帰る。……湊くんがいないなら、つまんないし」

 彼女はボソッと言い、上目遣いで俺を見た。

 その破壊力に、俺は思わず視線を泳がせる。

「そ、そうか……」

「ねえ、湊くん。一つだけお願いがあるんだけど」

「お願い?」

「うん。……その」

 彼女はモジモジと指先を弄り、意を決したように顔を上げた。

「私のこと、名前で呼んでほしいな」

「えっ」

「だって、『篠原さん』って他人行儀だし……私たち、もう彼氏彼女でしょ? だから……」

 彼女は顔を真っ赤にして、消え入りそうな声で言った。

「『美咲』って、呼んで?」

 心臓が跳ね上がった。

 名前呼び。それは高校生にとって、どんな契約よりも重く、甘いステップアップだ。

「い、いや、それはハードルが高くね?」

「ダメ? ……嫌い?」

 彼女は潤んだ瞳で俺を見つめる。

 これは反則だ。断れるわけがない。

 俺は覚悟を決めた。喉がカラカラに乾く。

「わ、わかったよ……」

「ほんと!?」

「ああ。……み、美咲……ちゃん」

「ちゃん付け?」

「い、いいだろ最初は! ……美咲ちゃん」

 俺が顔を真っ赤にしてそう呼ぶと、彼女は花が咲くように破顔した。

「うん! なあに、湊くん?」


「っ〜〜!!」

 限界だった。

 あまりの恥ずかしさに、全身から湯気が出そうだった。

「じゃ、じゃあな! また明日!」

 俺は脱兎のごとく駆け出した。

「あ、ふふっ! バイバイ、湊くん!」

 背後から、美咲ちゃんの鈴を転がすような笑い声が聞こえる。

 俺は一度も振り返らず、全速力で家路を急いだ。

 息が切れる。鼓動が早い。

 でも、その疲れさえも愛おしい。

 俺の青春は、間違いなく今、最高潮にある。

 そうして、自宅の前にたどり着いた頃には、日は完全に沈んでいた。

「……ふぅ」

 俺は呼吸を整え、熱った頬をパンパンと叩いた。

 ここからは日常だ。

 結愛がいる家だ。

 今日の体育祭での出来事。彼女を置いてきぼりにしたこと。そして「大切な人」のカード。

 怒っているだろうか。泣いているだろうか。

 俺は緊張しながらドアノブに手をかけ、鍵を開けた。

「ただいま」


「あ、おかえりなさい。湊くん」

 リビングのドアを開けると、そこには予想外の光景があった。

 結愛がキッチンに立っていた。

 エプロン姿で、手には菜箸を持っている。

 部屋の中には、出汁のいい香りが漂っている。

 怒号も、ヒステリックな泣き声も、あるいは不気味な沈黙もない。

 あまりに「普通」すぎる光景。

 だが、その「普通」さが、逆に異質だった。

 「遅かったね。打ち上げ、行かなかったの?」

 彼女は振り返り、穏やかに微笑んだ。

 その笑顔には、以前のような粘着質な湿度も、独占欲のギラつきもなかった。

 まるで、近所のお姉さんが親戚の子供を出迎えるような、一歩引いた、さっぱりとした笑顔。

「あ、ああ……やっぱり家で食おうと思って」

「そっか。ふふ、律儀だねぇ」

 彼女はコンロの火を止めた。

 ダイニングテーブルには、あの重箱が広げられている。

 中身は綺麗にお皿に取り分けられ、温め直されていた。

「体育祭、お疲れ様。優勝おめでとう」

 彼女は淡々と言った。

「ご飯できてるよ。……今日は湊くんの好きなハンバーグ、温め直しておいたから」

「……ありがとう」

「着替えてきて。お風呂も沸いてるよ」

 完璧な姉の対応。

 だが、そこには決定的な何かが欠けていた。

 俺を見る目に熱がないのだ。

 俺が美咲ちゃんを選んだことへの嫉妬も、恨み言も言わない。

 ただ、事務的かつ献身的に姉としての役割をこなしているだけ。

 その透明な雰囲気が、俺には怒鳴られるよりもずっと、遠くに感じられた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ