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エンカウント

 二人はまるで示し合わせたかのように俺の太ももに頭を預け、深い寝息を立てている。

 キッチンからは義母さんが食器を洗う単調な水音が聞こえてくるだけで、リビングには奇妙な静寂が落ちていた。


「……マジでどうなってんだよこれ」


 俺は誰に聞こえるでもなく小さく呟いた。

 少しでも足を動かせば二人を起こしてしまうかもしれない。

 かといって、このままじっとしているのも精神衛生上よろしくない。

 極度の緊張と二人の体温のせいでおかしくなりそうだった。

 そんな俺の苦悩を知ってか知らずか、突然右足に頭を乗せている結愛の唇が微かに動いた。


「……湊くん……」


 とろけるような甘い声が静かなリビングに響く。


「ずっと……私と一緒に……いるよね……」


 結愛は寝ていても俺の服の裾をぎゅっと握りしめていた。


「どこにも……行かせないよ……ふふっ」


 寝言のくせにあまりにも重すぎる。

 無意識の世界ですら俺を逃がすつもりはないという義姉の執念に俺の背筋に冷たい汗がツーッと流れ落ちた。

 そんな結愛の恐ろしい寝言を聞き流そうと俺が息を止めたその時だった。

 今度は左足に頭を預けている佐倉の口元が微かに動いた。


「……いいえ……それはだめです……」


 清楚で平坦な声が結愛の寝言に被さるように響く。


「湊くんの……健康と安全は……私が管理しますから……」


 俺は思わず目を見開いて佐倉の寝顔を見つめた。

 ただの寝言のタイミングが偶然被っただけなのか。

 それとも夢の中でまでこの二人は俺を巡って対立しているというのか。


「……湊くんは……私だけのもの……」

「……私の下から……逃れることは不可能です……」


 両サイドから交互に放たれる重すぎる執着と完璧すぎる管理の言葉。

 無意識のはずなのに二人の間には見えない火花がバチバチと散っているようにすら感じられる。


「誰か……助けてくれ……」


 俺は天井を仰ぎ見て小さな悲鳴を飲み込んだ。

 右足の結愛と左足の佐倉のまつ毛が同時にピクリと動いた。


「ん……」

「……んっ」


 二人揃って小さく声を漏らし、ゆっくりと目を開ける。

 そしてまばたきを数回繰り返した後で、現在の状況を視覚的に理解したようだ。

 自分たちが俺の太ももを枕にして寝ていたという事実。

 その反応はそれぞれ全くの真逆だった。


「わぁっ!湊くんの膝枕だ!」


 最初に動いたのは結愛だった。

 彼女は飛び起きるなり、俺の首に両腕を回して勢いよく抱きついてきた。


「えへへ……目覚めたら大好きな湊くんの匂いがするなんて、幸せすぎるよぉ」


 俺の胸元に顔をぐりぐりと押し付けて甘えてくる。

 包丁を振りかざしていたのと同じ人物とは思えないほど、無邪気な歓喜の表情だった。

 俺は結愛の予想通りの重い愛情表現にただ引きつった笑いを浮かべるしかない。

 しかし問題はもう一人の方だった。

 結愛に抱きつかれて身動きが取れない俺の左側で。

 佐倉は自分の頭が置かれていた場所をじっと見つめたまま、寝ぼけているのか、完全にフリーズしていた。


 数秒の沈黙の後。

 彼女の真っ白で清楚な顔が耳の先まで一気に茹でダコのように真っ赤に染まった。


「っ……!?」


 佐倉は弾かれたように飛び起きるとラグの上を後ずさって、俺から距離を取る。


「さ、佐倉?大丈夫か?」

「な、なにをしているんですか湊くん!」


 いつもは氷のように冷徹な優等生が信じられないほど慌てふためいていた。


「私が無防備な状態にあるのをいいことにあのような接触を図るなんて……っ」

「いや俺から接触したわけじゃないぞ!お前たちが勝手に倒れて頭を乗せてきたんだからな!」


 俺が必死に弁解すると佐倉はさらに顔を赤くして、俺をキッと睨みつけた。


「ふ、不可抗力です!あれは突発的な睡魔による完全な不可抗力であり私に一切の責任はありません!」


 早口でまくし立てながら必死に正論を振りかざそうとするが、その声は完全に裏返っている。


「でも佐倉さんさっき寝言で湊くんを管理するとか言ってたよね?」


 俺の腕の中で結愛がクスリと意地悪そうに笑う。


「なっ……!寝言は無意識の産物であり証拠能力は持ちません!」

「あははっ、顔真っ赤だよ佐倉さん」


 その様子を見て俺の腕の中にいる結愛がさらに楽しそうに目を細めた。


「佐倉さんってば本当に可愛いね」


 結愛は俺の胸元から顔を出すと、余裕の笑みで佐倉を見つめた。


「そんなにムキにならなくてもいいのに。寝てる間に本音が出ちゃっただけだもんね」

「ほ、本音などではありません。あれはただの無意識下の脳内情報処理のバグで……」

「はいはいバグバグ〜。でもさ」


 結愛はコテンと首を傾げてまるで親友に語りかけるような甘い声を出した。


「湊くんを好きな者同士なんだし、仲良くしよ?」


 その言葉にリビングの空気が一瞬でピタリと止まった。

 湊くんを好きな者同士。

 結愛の口から出たあまりにもストレートな言葉に俺は心臓が止まるかと思った。


 佐倉が俺のことを好き。

 そんなはずはないと分かっていても直接言われるとどうしても意識してしまう。

 しかし佐倉の反応は俺の予想とは全く違うものだった。

 彼女の顔から先ほどまでの朱色がスッと引きいつもの氷のような冷徹さが戻ってくる。


「……お断りします」


 佐倉は乱れた衣服を真っ直ぐに整えながら冷たく言い放った。


「あら残念。どうして?」

「あなたと私では前提となる思考回路が根本的に異なります。私が彼を管理しようとするのは純粋な保護と、少しの秘密の理由からです」


 佐倉の理知的な瞳が結愛の歪んだ笑顔を真っ直ぐに射抜く。


「監禁し、危害を加えようとするあなたの異常な執着心と私の行動原理を一緒のカテゴリーに分類しないでください」

「ふーん。佐倉さんは素直じゃないなぁ」


 結愛は全く堪えた様子もなく俺の腕にさらに強く抱きついてくる。


「私は湊くんを愛してるから何でもできるのにね。佐倉さんのその冷たい理屈じゃ湊くんのことは守れないよ?」

「そんな愛など破滅を招くだけです」


 佐倉は小さくため息をつくと、結愛からスッと視線を外した。

 そして迷うことなく俺の腕を強く掴んで引き寄せる。


「これ以上の対話は無意味です。湊くん、帰りますよ」

「えっ……帰るって佐倉の家に?俺が?」

「当然です。こんな論理も通じない異常な空間にあなたを置いておくわけにはいきません」


 佐倉の引く力は思いのほか強かった。

 俺は結愛の拘束から半ば強引に引き剥がされ、玄関へと向かって歩き出す。

 背後から結愛の怒る声や焦る声が聞こえてくるかと思った。

 しかし俺の予想に反してリビングから聞こえてきたのはクスリという楽しげな笑い声だった。


 「帰るってどこに?」


 結愛の声には微かな狂気が甘く溶け込んでいた。


「ここは湊くんのお家だよ?自分の家から帰るなんておかしいじゃない」


 その不気味な言葉を背中で聞きながら佐倉は玄関のドアノブに手をかけた。

 ガチャガチャ。

 冷たい金属音が薄暗い玄関に虚しく響く。


「……開かない」


 佐倉の背中が微かに硬直した。


「嘘だろ?」


 外から物理的に細工されているのか。

 それとも、このドア自体が何らかのシステムで強制ロックされているのか。

 ガチャガチャガチャ!

 佐倉が焦ったように何度もドアノブを回すが、分厚い扉はビクともしない。


「無駄だよ佐倉さん」


 いつの間にかリビングから出てきた結愛が廊下の奥で微笑んでいた。


「一度入ったらもう出られないよ。だってここは家族がずっと一緒に暮らすための大切なお城だもん」


 佐倉は焦ったように何度もドアノブを回している。

 しかし分厚い扉はビクともしない。


「無駄だよ佐倉さん」


 廊下の奥から結愛の不気味な笑い声が聞こえる。


「一度入ったらもう出られない」


 その言葉に俺の背筋が凍りついたその時だった。


「……ふふっ。あはははっ!」


 結愛が突然お腹を抱えて大爆笑し始めたのだ。


「え……?」

「佐倉さんったら本当に面白いね。テンパりすぎて鍵を開けるのも忘れて、ひたすらドアノブ回してるだけじゃない」


 結愛の言葉に俺と佐倉の動きがピタリと止まった。


「佐倉さんが力いっぱいドアノブ引っ張ってるから、湊くんも鍵のつまみを回せなかったんだよ。もう、優等生風を装っているのに、ドジだなんて」


 俺が試しに「佐倉、ちょっと手離してくれ」と指示しゆっくりとつまみを回してみる。

 カチャッ。

 何の抵抗もなく、あっさりと鍵が開く軽快な音が鳴った。

 家が巨大な密室になったわけでも電子ロックで封鎖されたわけでもなかった。

 ただ単にいつもは冷静な佐倉が完全にパニックになって鍵を開けずにドアを開けようとしていただけだったのだ。


 「っ……!」


 佐倉の顔が足元から火を噴いたように一瞬にして真っ赤に染まった。


「わ、私は決してテンパっていたわけでは……!これはドアの構造を検証していただけで……!」

「はいはい。顔真っ赤だよ佐倉さん」


 結愛にクスクスとからかわれ、佐倉は恥ずかしさのあまりギリッと奥歯を噛み締めた。


「……帰ります!」


 半ばヤケクソになったように佐倉が勢いよく玄関のドアを押し開けた。

 バーンという音と共に外の眩しい日差しが薄暗い玄関に差し込んでくる。


 狂気の密室からようやく解放された。

 そう思って俺が安堵の息を吐き出そうとした瞬間だった。


「……は?」


 開け放たれたドアのすぐ目の前。

 インターホンを押そうとしていたのか手を宙に浮かせた一人の少女が立っていた。

 長い黒髪とどこか陰のある目元。

 つい数時間前に電話で応答していたはずの人物。


「雪……ちゃん……?」


 彼女は俺たちを見て少しだけ驚いたような顔をした後で、静かに微笑んだ。


「こんにちは湊くん。それに……佐倉さんも」


 なぜ彼女がここにいるのか。

 恥ずかしさで真っ赤になっていた佐倉の顔が今度は別の意味で完全に凍りついた。

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