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甘い麻痺

 リビングのテーブルには四つの皿が並べられていた。

 結愛と義母さんが切り分けてくれた、苺のショートケーキ。

 ふんわりとしたスポンジと生クリームの甘い匂いが鼻をくすぐる。


「さあ湊くん、遠慮しないでいっぱい食べてね」

「佐倉さんもお口に合うといいのだけれど」


 二人の穏やかで優しい笑顔を見ていると、俺の頭の中から惨劇が嘘のように消え去っていく。

 そうだ。ここは俺の家で、目の前にいるのは大切な家族なんだ。

 包丁だの監禁だの、サスペンスみたいな出来事はきっと俺の悪い夢だったに違いない。

 完全に不信感を忘れ去った俺は、無邪気にフォークを手に取り、ケーキを口に運んだ。


「美味しい……結愛、これすごく美味しいよ」

「ふふっ、よかったぁ。湊くんのために一生懸命作ったんだよ?」


 和やかな空気がリビングを満たす。

 しかし、その平和な食卓の中で隣に座る佐倉だけが、フォークを空中でピタリと止めていた。

 その後、佐倉はハンカチで口元をぬぐう。彼女の皿の上のケーキは一口だけ食べられた状態になっている。


「あれ?佐倉どうしたんだ?」


 俺が不思議に思って声をかけると、佐倉はハッとしたように目を瞬かせた。


「……いえ」


 佐倉はゆっくりとフォークを皿の上に置いた。

 その表情には、いつもの冷徹な余裕はなく、どこか信じられないものを見るような驚きが浮かんでいる。


「どうしたの?もしかして、甘いものは苦手だったかしら」


 義母さんが心配そうに覗き込んでくるが、佐倉は首を横に振った。


「いえ……味はとても良く、上品であると感じます。思わず場の空気に流されて一口食べてしまいましたが、やはりやめておきます」

「え?遠慮しなくていいのに」

「遠慮ではありません。……私は今、出されたものを何も疑わずに口にしてしまった。自分自身がそんな行動をとるなんて、信じられません」


 佐倉は自身の無防備な行動にひどく動揺しているようだった。

 つい先ほどまで彼女は情報が足りないと警戒し、この家に潜入調査しようとしていたのだ。

 それがこの異様なほど平和な日常の空気に呑まれ、敵対しているはずの相手から出された食べ物を無意識に口にしてしまった。

 完璧な論理で武装していた優等生ですら抗えないほどの強烈な魔力。


 リビングに流れていた平和な空気が一瞬にして凍りついた。

 結愛が突然クスリと嬉しそうに笑い声を上げたからだ。


「あははっ。佐倉さん一口だけでも食べちゃったね」


 その声には隠しきれない歓喜と悪意がネットリと絡みついていた。

 佐倉の顔から血の気がスッと引いていく。


「……どういう意味ですか」

「どういう意味も何もそのままの意味だよ」


 結愛は立ち上がると、佐倉の後ろへと回り込み、彼女の耳元で甘く囁いた。


「湊くんのケーキには、私のお砂糖みたいな愛情しか入ってないけどね」


 結愛の細い指が佐倉の肩をそっと撫でる。


「泥棒猫さんのケーキには特別なお薬を少しだけ混ぜておいたの」

「っ……!」


 佐倉が弾かれたように立ち上がろうとしたが、その動きはひどく鈍かった。

 足元がふらつき、そのまま椅子に深く座り込んでしまう。


「佐倉?」


 俺はケーキを頬張ったまま首を傾げた。

 結愛と義母さんに対する不信感がすっぽりと抜け落ちている俺の脳は、今の異常なやり取りをうまく処理できない。


「お薬って……なんか、栄養剤とか胃薬か?」


 俺が暢気に尋ねると、結愛は満面の笑みで俺を振り返った。


「そうだよ、湊くん。佐倉さんは最近少しお疲れみたいだからゆっくり休んでもらおうと思って」

「……湊くん。逃げなさい……」


 佐倉の口から絞り出すような声が漏れた。

 清楚で整った彼女の顔が苦痛に歪み、額には脂汗が浮かんでいる。


「佐倉さんたら酷いなあ。せっかく私が特別にブレンドした筋肉弛緩剤入りの睡眠薬なのに」


 結愛は歪んだ笑顔のまま、佐倉の首筋に冷たい指を這わせた。


「まあ一口だけだから完全に眠るまではいかないかもしれないけどね。でも手足はもうまともに動かせないでしょ?」

「……あなたたち正気ですか」


 佐倉が震える声で正面に座る義母さんを睨みつける。

 しかし義母さんは紅茶のカップを優雅に傾けたまま、ニコニコと微笑んでいるだけだった。


「結愛は本当にいたずらっ子ね。でも、佐倉さんも無理は禁物よ。少し休んでいきなさい、ね」


 まるで娘の軽いイタズラを嗜めるような異常なまでの穏やかさ。


「湊くん……騙されてはダメです……目を覚まして……」


 佐倉が必死に俺に手を伸ばそうとするが、その手は空を切って力なくテーブルに落ちた。

 俺の目の前で佐倉が完全に崩れ落ちようとしている。

 結愛の冷たい指先が佐倉の首筋を撫でようとしたその瞬間。

 力なく垂れ下がっていたはずの佐倉の右手が鋭く跳ね上がった。

 そして結愛の細い手首を万力のような力でガッチリと掴み取る。


「……え?」


 結愛の歪んだ笑顔が驚きに固まった。


「佐倉、さん……?体が動かないはずじゃ……」


 佐倉はゆっくりと顔を上げた。

 その表情には先ほどまでの苦痛や虚脱感など微塵もない。

 あるのは氷のように冷徹で理知的な絶対者の眼差しだけだった。


「想定外の存在である貴方を相手取るなら、一口で効くような即効性の薬があることなど最初から想定内です」


 佐倉は結愛の手首を掴んだまま静かに立ち上がった。

 その所作はどこまでも清楚でありながら、一切の隙を感じさせない。


「どういうことだよ佐倉……さっきケーキ食べたじゃないか」


 俺が呆然と尋ねると、佐倉は空いている方の手でポケットから真っ白なハンカチを取り出した。


「食べていません。口に含んだ瞬間にハンカチで口元を拭うふりをして全て吐き出しました」


 広げられたハンカチの中心には、一口分のスポンジと生クリームが包み込まれるように残っていた。


「この異常な空間で出されたものを、私が無防備に飲み込むとでも思ったのですか」


 佐倉の冷ややかな声がリビングに響き渡る。


「私がそんな行動をとったと見せかけ、あなたたちが本性を現すようあえて誘導したに過ぎません」


 佐倉は結愛の手首をさらに強く締め上げた。


「痛っ……離して」

「『特別なお薬を混ぜておいた』……その言葉は私のスマートフォンにしっかりと録音されています」


 佐倉のポケットの中で黒いスマートフォンが赤い録音ランプを点滅させていた。


「あなた方の異常性はこれで客観的に証明されることでしょう」


 佐倉の視線が結愛から優雅に紅茶を飲んでいた義母さんへと真っ直ぐに向けられる。


「これでもまだ平和な家族のティータイムというフィクションを演じ続けるつもりですか」


 義母さんのティーカップを傾ける手がピタリと止まった。

 その顔に貼り付いていた完璧な笑顔がほんの僅かに引きつる。


「湊くん。立ちなさい」


 佐倉が短く鋭く俺に命令した。


「この家はあなたの帰る場所ではありません。狂気に支配された密室です」


 俺の脳裏に昨日結愛に包丁を突きつけられたあの恐怖の記憶がフラッシュバックのように蘇り始める。

 忘れていたのではない。

 あまりの恐怖とこの家の歪な同調圧力によって脳が一時的に記憶に蓋をしていただけなのだ。

 結愛の細い手首を握りしめ、冷徹な勝利宣言を突きつけた佐倉。その完璧な論理による逆転劇が決まったかのように思えた次の瞬間だった。


「……あれ?」


 佐倉の口から、彼女らしからぬ間抜けな声が漏れた。結愛の手首を掴んでいた右手の力がスッと抜け、その場に崩れ落ちるように膝をついてしまったのだ。


「佐倉?どうしたんだ!」


 俺が慌てて声をかけるが、佐倉は焦点の定まらない瞳で自分の震える手を見つめている。


「おかしい……私は、ケーキを……口にしていない、はず……」


 そのまま佐倉は糸が切れた操り人形のようにパタリとフローリングの床に倒れ伏してしまった。スースーと規則正しい寝息が聞こえ、完全に意識を手放していることがわかる。


「あははっ、佐倉さんったら強がっちゃって……」


 倒れた佐倉を見下ろして結愛が勝ち誇ったように笑い声を上げた。しかしその笑い声は唐突に途切れた。


「……え?あれ、なんか私まで、頭が……ふらふら、して……」


 結愛の体が大きくよろめき、そのまま佐倉の上に覆い被さるようにして倒れ込んでしまったのだ。結愛もまた、佐倉と同じように深い眠りに落ちている。

 リビングに静寂が落ちた。俺は完全にパニックになり、ゆっくりと紅茶を飲んでいた義母さんの方を勢いよく振り返った。きっと義母さんが何か恐ろしい罠を仕掛けたに違いない。そう思って彼女を睨みつけたのだが、当の義母さんはティーカップを持ったまま不思議そうにパチパチと瞬きをしていた。


「あらあら……二人とも急にどうしたのかしら?最近の若い子はどこでも眠れちゃうのねぇ」


 その反応は演技には見えなかった。本当に目の前で起きた事態が理解できていないような、心底不思議そうな顔をしている。義母さんが仕組んだことではないとすれば、一体なぜ二人は突然眠ってしまったのか。


「湊くん、そのまま床に寝かせておくのは可哀想だから、二人をそっちに寄せて子守をお願いできるかしら。私はちょっと後片付けをしちゃうわ」


 義母さんはのんびりとした口調でそう言うと、立ち上がってキッチンへと向かってしまった。取り残された俺は戸惑いながらも、床に倒れている二人をどうにかして安全な場所へ移動させるしかなかった。


「……なんで俺がこんな目に」


 俺はリビングのラグの上に座り込み、意識のない結愛と佐倉の体を慎重に引き寄せた。二人の頭をクッションにでも乗せようとしたのだが、無意識にすり寄ってきた結愛が俺の右太ももを枕にして丸まり、それに対抗するように佐倉が俺の左太ももに頭を乗せてしまったのだ。


 右足には狂気を秘めた義姉の甘い重み。左足には冷徹な優等生の柔らかい髪の感触。二人同時に膝枕をしているという客観的に見れば夢のようなシチュエーションだが、俺の体は一切動かすことができなくなってしまった。


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