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甘い匂い

 底知れない義母の闇と結愛の狂気。

 二つの巨大な恐怖が交差する密室で佐倉は静かに立ち上がった。


「情報が足りなすぎます」


 彼女はパソコンのモニターをパタンと閉じ振り返って俺を見下ろした。


「このままここに引き篭もっていても事態は何も好転しません。むしろ、敵に準備の時間を与えるだけです」

「敵って……じゃあどうするんだよ」

「私が直接あの家に行って調査してきます」


 佐倉の口から出た言葉は彼女の普段の思考からは到底信じられないものだった。


「は……?」


 俺は自分の耳を疑いベッドから勢いよく身を乗り出した。


「お前バカか!あそこにはお前が怪しんでる結愛と義母さんがいるんだぞ!」

「ええ。だからこそです」


 佐倉は一切の感情を交えず淡々と答える。


「結愛さんの執着の対象はあなたです。あなたがここにいる以上、あちらの警戒はあなたに向いているはず。私が単独で潜入し、手がかりを探るのが最も効率的です」

「こういうのって効率とかの問題じゃないだろ!見つかったら何されるか分からないんだぞ!」

「私なら見つからずに情報を引き出せます。それに、あの先生の失踪に関する決定的な証拠もあの家にある可能性が高い」


 佐倉はクローゼットから上着を取り出し、本当に行く準備を始めようとしていた。


 「ふざけるな!」


 俺は痛む左腕のことなど忘れ、ベッドから飛び出すと佐倉の細い腕を強く掴んだ。


「っ……」


 突然の俺の強い力に佐倉が微かに顔を歪める。


「お前が行くなんて絶対にダメだ!」


 俺は必死に彼女の冷たい腕を引き寄せた。


「俺を助けてくれた恩人が、俺のせいで危険な目に遭うなんて絶対に嫌だ。そんなの論理的でも何でもない、ただの無謀な特攻じゃないか!」


 佐倉は大きく目を見開き驚いたように俺の顔を見つめ返した。

 至近距離で交差する視線。

 俺の必死な言葉を受けて彼女の冷徹な仮面がほんの少しだけ崩れ落ちる。


「……湊くん。腕を離してください。あなたの傷に響きます」

「離さない。お前が絶対に行かないって約束するまで絶対に離さないからな」


 俺がさらに強く腕を握りしめると、佐倉は困ったように視線を彷徨わせた。


「……あなたは本当に非合理的で……そして酷く愚かです」


 彼女の声はいつもの冷たい毒舌だったが、その響きにはどこか戸惑いと微かな熱が帯びていた。


「私の身の安全などあなたが心配する必要はないのに」

「心配するに決まってるだろ。俺はお前を失いたくないんだ」


 無意識に出た言葉だった。

 その瞬間佐倉の頬がさっと赤く染まり彼女は小さく息を呑んだ。

 俺の口から無意識に飛び出した「失いたくない」という言葉。

 その熱に絆されたように佐倉の頬はうっすらと染まっていた。


 しかし彼女はすぐに顔を伏せると、ほんの少しだけ気まずそうに小さく咳払いをした。

 そしてゆっくりと俺の手から自分の腕を解きにかかる。


「……湊くん。少し落ち着いてください」


 彼女の声はいつもの冷たく平坦なものに戻っていたが、その響きにはどこか柔らかさが混じっていた。


「私を心配してくださるのは光栄ですが、あなたの前提は少し飛躍しすぎています」

「飛躍って……でもあの人たち、何してくるか分からないだろ!」


 俺が食い下がると佐倉は小さくため息をつき、理知的な瞳で俺を真っ直ぐに見つめ返した。


「ですが、相手はあなたの家族でしょう?」


 佐倉の口から出たのはあまりにも真っ当で現実的な正論だった。


「いくら異常な執着を見せているとはいえ、流石に命をとるなんてそんなフィクションみたいなこと起こりませんよ」

「え……」

「確かに結愛さんは包丁を持ち出しましたが、お義母様が間に入ったことで事態は収束しました。彼女たちも社会生活を送る人間です。殺人という最大のリスクを冒すはずがありません」


 佐倉の言葉に俺は頭に上っていた血がスッと引いていくのを感じた。

 言われてみれば確かにそうだ。

 包丁を振り回された恐怖と、得体の知れないメモのせいで俺の思考は完全にパニック状態に陥っていた。


 結愛も義母も、血は繋がっていないとはいえ俺の家族だ。

 日常の延長線上でいきなり殺し合いが始まるなんて、それこそサスペンスドラマの読みすぎかもしれない。

 俺は掴んでいた佐倉の腕からゆっくりと手を離した。


「……確かにな」


 俺が落ち着きを取り戻して頷くと、佐倉はホッとしたように自分の腕を撫でた。


「理解していただけて何よりです。あなたは少し想像力が豊かすぎるきらいがありますね」

「悪かったよ。でも本当にお前が死ぬんじゃないかと思って焦ったんだ」

「ですから死にませんと何度も言っているでしょう」


 佐倉は呆れたように言いながらもその表情はどこか優しげだった。

 その冷静な言葉に俺の頭に上っていた血は完全に冷めきっていた。

 確かに彼女の言う通りだ。

 いくら異常な執着を見せているとはいえ、やはり相手は俺の家族なんだ。

 

 「……やっぱり一度家に帰ってみるよ」


 俺はベッドから立ち上がり、佐倉の顔を真っ直ぐに見つめた。


 「逃げてばかりじゃ何も解決しない。ちゃんと話し合って結愛や義母さんの本当の気持ちを確かめたいんだ」


 俺の決意を聞いて、佐倉は静かに小さく頷いた。


 「分かりました。ですが万が一ということもありますから私も同行します」

 「いいのか?」

 「ええ。第三者である私が介入することで、感情的な衝突を論理的に抑え込める可能性が高くなりますから」

「いや、あの人が感情的になるのは想像つかないけどな。まぁ、子供っぽいけど」


 俺たちは冷たい論理の鎧と微かな希望を胸に、俺の家へと向かうことになった。

 夏の強い日差しが照りつける中、見慣れた我が家の玄関に到着する。

 俺は少しだけ震える手でドアノブを回した。

 鍵はあっさりと開いた。


 「お邪魔します」


 佐倉が静かに声をかけながら俺の後ろに続く。

 薄暗い玄関には昨日の凄惨な血の跡など、どこにも残っていなかった。

 それどころかリビングの方からひどく甘い匂いが漂ってきている。

 焼き立てと濃厚な生クリームの香り。

 俺と佐倉が顔を見合わせたその時、リビングの扉がガチャリと開いた。


 「あ、湊くん。おかえりなさい」


 そこに立っていたのはフリルのついた可愛らしいエプロン姿の結愛だった。

 彼女の顔には包丁を振り回した狂気など微塵も感じられない完璧で愛らしい笑顔が貼り付いている。


 さらに結愛の後ろから同じくエプロンをつけた義母が穏やかな笑みを浮かべて顔を出した。


 「おかえりなさい湊くん。あら、お友達も一緒なのね。いらっしゃい」

 「……え?」


 俺は目の前の光景が全く理解できず、ただ呆然と立ち尽くした。

 リビングのテーブルの上には見事な装飾が施された手作りの大きなケーキが置かれている。


 「湊くんが帰ってきたら一緒に食べようと思ってお義母さんと一緒に焼いてたの」


 結愛は小走りで近づいてくると嬉しそうに俺の無事な右腕に絡みついてきた。

 つい昨日この場所で俺の血を舐め取ったのと同じ、その美しい唇で彼女は甘く囁く。


 「さあ早く手を洗ってきて。美味しいケーキ、三人で……ううん、四人で一緒に食べましょう?」


 そこにあったのは凄惨なサスペンスでも血みどろのホラーでもない。

 あまりにも完璧すぎる、そして吐き気がするほど不気味な『平和な日常』の光景だった。

 まるで昨日の修羅場など最初から存在しなかったかのような歪な上書き。

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