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存在しないワトスン君

 佐倉は俺の脱いだばかりのTシャツとズボンを拾い上げた。


「これは洗濯しておきます。血の汚れは早く落とさないと定着してしまいますから」

「ああ。なんか色々とごめんな」

「謝罪はいりません。これもただの作業の一環ですから」


 佐倉は相変わらずの淡々とした口調で言いながら、ズボンのポケットに手を入れた。

 洗濯機に入れる前の事務的な確認作業だったのだろう。

 だが、ポケットの奥を探っていた佐倉の指先がピタリと止まった。


「……湊くん。これは何ですか?」


 佐倉がポケットから取り出したのは四つ折りにされた、小さな紙切れだった。


「紙?なんだそれ。俺そんなの入れた記憶ないけど」


 俺はベッドから身を乗り出してその紙切れを見つめた。

 佐倉は無表情のままゆっくりとその紙片を開く。

 そしてそこに書かれた文字を目にした瞬間。

 彼女の理知的な瞳がわずかに見開かれ、凍りついたように動きを止めた。


「……佐倉?」

「……湊くん。これを見てください」


 佐倉の声はいつもの平坦さを失い、微かに震えていた。

 彼女が差し出した紙切れを俺は受け取った。

 そこには見覚えのない歪な筆跡で短くこう書かれていた。


 『義母とその娘を信じるな』


 俺は心臓を冷たい手で鷲掴みにされたような感覚に陥った。


 「なんだよ……これ」


 宛名すらない差出人不明の不気味なメモ。

 俺はいつの間にこんなものをポケットに入れられていたんだ。


「湊くん。あなたはこのメモの存在に全く心当たりがないのですね?」

「ないよ!ずっと結愛とあの部屋にいて……こうなるまで外になんて出てないし、誰とも会ってない!」


 俺の叫びに佐倉は血の気を引いた顔で黙り込んだ。


「……この状況はおかしすぎます。あなたが監禁状態にあったのなら、外部の人間がこのメモをポケットに入れることは不可能です」

「じゃあ……あの家の中にいた誰かが入れたってことか?」


 俺の頭にあの修羅場の光景がフラッシュバックする。

 狂気に満ちた結愛。

 そしてその結愛を偶然鎮めた、その時に帰宅したという義母。


「……お義母様があなたを助けたという私の認識すら間違っていたのかもしれません」


 佐倉の声が密室の部屋に重く響き渡る。


「もしこのメモが真実なら……あの家は結愛さん一人ではなく、お義母様も含めた異常な空間だったということになります」


 義母を信じるな。

 そのたった一言が俺たちがすがりつこうとしていた僅かな希望を完全に粉砕した。

 結愛の狂気はただの始まりに過ぎなかったのかもしれない。


「湊くん……」


 佐倉の冷たい指先が震える俺の腕をそっと掴んだ。

 底知れない悪意の存在に背筋を凍らせている俺に向かって。

 佐倉は手にした不気味な紙片を見つめたまま、ふと冷静な声で口を開いた。


 「……ちなみに、一つ補足しておきます」

 「補足?」

 「ええ。私が今こうしてあなたのシャツとズボンを手に取り、このポケットからメモを見つけ出したわけですが」


 佐倉は淡々と言葉を紡ぎながら、俺の目を見据える。


 「物理的な動作のプロセスだけを見れば、私がシャツを受け取った死角を利用して、あらかじめ自分で書いておいたメモをポケットに忍ばせるという手品も可能だということです」

 「……えっ」

 「第三者の視点からすれば、私が意図的にあなたを混乱させるために自作自演を行ったと疑う余地が残されています」


 理知的な瞳が、自らの行動に対する客観的な疑念すらも完璧な論理で提示してくる。


 「ですが、私はそんな非合理的な真似は一切していないということを、あなたには明確に理解しておいていただきたいのです」


 俺を不安にさせないための、彼女なりの誠実で論理的な予防線だったのだろう。

 しかし、その言葉を聞いた俺の口から出たのは、全く別の感想だった。


 「……なるほど。確かにそうやってメモを仕込むことも出来るのか」

 「……はい?」

 「いや、すごいなと思って。佐倉ってそういうサスペンスドラマみたいなトリックまでパッと思いつくんだな。俺なら佐倉が自分で入れたなんて絶対に気づかなかったよ」


 俺が心底感心したように頷くと、密室の部屋に重苦しい沈黙が落ちた。

 佐倉は手に持っていた紙片を下ろし、信じられないものを見るような目で俺をじっと見つめている。


 「……はぁ」


 やがて、彼女の口から今日一番の深く上品なため息がこぼれ落ちた。


 「……佐倉?」

 「どうしてそこで感心するのですか。私は自分への疑いを勝手に潰しただけなのですが」


 佐倉は呆れ果てたように肩を落とし、冷ややかな視線を俺に突き刺した。


 「その絶望的なまでの危機感の欠如と、的外れな楽観主義には、本当に頭が痛くなります」

 「な、なんだよ。せっかく褒めたのに……」

 「褒め言葉として受け取れる要素が微塵もありません。少しは自分の置かれている異常な状況を正確に認識してください」


 呆れ果ててため息をつく佐倉を前にして、俺は少しだけ真面目な顔に戻った。


「……でもさ。俺が自分で入れたわけじゃないし佐倉も入れてないってことは、やっぱり誰かが意図的に入れたってことだろ」


 俺は手元にある不気味なメモをもう一度見つめる。


「なあ佐倉。俺が家からここに来るまでの間……つまり俺が意識を失って運ばれている間に誰かと会ったりしなかったか?」


 もし家の中で入れられたのではないとすれば運ばれている道中しかない。

 意識のない俺のポケットに誰かがすれ違いざまに忍ばせた可能性だ。

 俺の問いかけに佐倉は小さく首を横に振った。


「いいえ。その道中で誰かと接触したという事実は一切ありません」


 佐倉の冷たくて透き通るような声が俺の淡い期待を打ち砕く。


「意識を失ったあなたを私一人で運ぶのは物理的に困難でしたから、すぐにタクシーを手配しました。運転手以外とは言葉も交わしていませんし、第三者があなたに触れるような距離に近づくこともありませんでした」


 佐倉は淡々と当時の状況を説明していく。


「それにタクシーへの乗降時も私がずっとあなたを支えていました。見知らぬ人間があなたのズボンのポケットに手を入れるなどという事態を見逃すはずがありません」

「じゃあ……やっぱり」

「ええ。消去法で考えれば答えは一つしか残りません」


 佐倉の理知的な瞳が氷のように冷たく細められた。


「このメモがあなたのポケットに入れられたのはあの家の中にいた時だけです」


 密室に再び重苦しくて冷たい空気が流れ込んできた。

 結愛の監視の目が光るあの家の中で。

 俺の服のポケットにこんなものを仕込める人間がいたのか。


「……お義母様しかいませんね」


 佐倉が俺の心の奥底にあった最悪の予想を静かに口にした。


「私が結愛さんと対峙しあなたが気絶したあの混乱の最中。お義母様があなたの体に触れる機会は十分にありました」

「母さんが……俺にこれを?」


『義母とその娘を信じるな』


 もし母さんが自分でこれを入れたのだとしたら意味が通らない。

 自分自身を信じるなと息子に警告していることになる。

 だとしたら結愛が?

 いや結愛がこんなまどろっこしい真似をするはずがない。

 あの狂気に満ちた義姉なら言葉ではなく、物理的な拘束で俺を支配しようとするはずだ。


「……湊くん」


 佐倉の清楚な顔に微かな緊張が走る。


「お義母様は何かとてつもなく恐ろしい秘密を抱えているのかもしれません。そしてそれは、結愛さんの狂気すらも凌駕する何かである可能性が高いです」

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