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騙し愛

 スマホをデスクに置いた佐倉は、明らかに普段の彼女とは違う空気を纏っていた。

 パソコンのモニターから視線を外し、無言のままズカズカと俺の方へ歩いてくる。


「お、おい佐倉。どうしたんだよ」


 俺がたじろいで後ずさると、背中が壁にぶつかった。

 逃げ場を失った俺の目の前に、佐倉の端正な顔が迫る。


「雪ちゃんの心配など不要です」


 冷たい声と共に、佐倉は突然自分の額を俺の額にピタリと押し当ててきた。


「はっ……!?」


 至近距離で交差する視線と、直に伝わってくる彼女の滑らかな肌の感触。

 シャンプーの甘い香りが鼻腔をくすぐり、俺の心臓は昨夜のように激しく跳ね上がった。


「さ、佐倉!何してるんだよ!」

「体温の検測です。あの程度の通話で異常に心拍数を上げているあなたには、ちょっとした確認が必要です」


 佐倉は額を合わせたまま、真剣な瞳で俺を見つめてくる。


「雪ちゃんは遠くから無責任な言葉を並べているだけです。ですが私は違います」


 佐倉の冷たい指先が俺の頬をそっと包み込んだ。


「今この空間で、あなたの生命と健康を完璧に管理しているのは私です。彼女に心配されるような隙は、一ミリたりとも存在しません」


 それは明らかに、雪乃宮の「大丈夫?」という言葉に対する強烈な対抗心だった。

 合理性を重んじるはずの優等生が、見えない同級生相手にマウントを取ろうとしている。

 その事実が俺を混乱させ、同時にどうしようもないほどドギマギさせていた。


 「少し微熱がありますね。すぐにベッドへ戻りましょう」


 佐倉は俺の額から離れると、半ば強引に俺の腕を引いてベッドへと押し戻した。


「いや、熱なんてないって。それにさっきご飯食べたばかりだし……」

「黙って寝ていてください。傷の修復には睡眠と継続的な栄養補給が不可欠です」


 俺が反論する隙も与えず、佐倉は掛け布団を俺の首元まできっちりと引き上げる。

 さらに彼女はキッチンへ向かい、冷蔵庫から手際よくフルーツを取り出して切り始めた。

 数分後、佐倉は一口大に切られたリンゴとフォークを持ってベッドの脇に座り込んだ。


「口を開けてください」

「えっ……自分で食べるれよ」

「左腕を負傷しているあなたに、無駄な労力を使わせるのは良くないです。それに、食事のペースも私が管理した方が効率が良いですから」


 佐倉は無表情のまま、フォークに刺したリンゴを俺の口元へと差し出してきた。


「ほら、早く」


 俺は結愛に強要された「あーん」の恐怖を思い出し、一瞬身構えた。

 だが目の前にいるのは、俺を監禁して狂気で染め上げようとした義姉ではない。

 雪乃宮への対抗心から意地になっている、不器用で少しムキになった学友だ。


「……あ、あーん」


 俺が恐る恐る口を開けると、佐倉は満足げにリンゴを放り込んだ。


「美味しいですか。ビタミンCの摂取は免疫力の向上に直結します」


 淡々と理由を並べながらも、彼女の手は次々と俺の口へフルーツを運んでくる。

 リンゴを最後の一切れまで食べ終えると、佐倉は満足そうに小さく頷いた。

 彼女は空になった皿を片付けると、クローゼットから一着の真っさらなTシャツを持って戻ってきた。


 「湊くん。昨夜からの緊張と微熱で、かなり汗をかいてしまっていますね。そのままでは不衛生ですし、傷口の感染症リスクも高まります」


 佐倉はベッドの端に腰掛け、丁寧に畳まれた服を俺の隣に置いた。

 その所作はどこまでも上品で、育ちの良さを感じさせる。


 「着替えましょう。新しい服を用意しました」

 「あ、ああ。ありがとな。……じゃあ、ちょっと向こう向いててくれるか? 着替えるから」


 俺がそう言ってシャツの裾に手をかけると、佐倉は困ったように眉を下げて俺の手をそっと制した。


 「いけません。左腕を負傷している今のあなたが無理に体を動かせば、せっかく塞がりかけた傷口がまた開いてしまいます」

 「いや、でも流石に悪いし、恥ずかしいっていうか……」

 「恥ずかしがる必要なんてどこにあるんですか。私はあなたの健康を管理する必要があります。これはあくまで、合理的な処置なのですから」


 佐倉は静かに、けれど一切の反論を許さない凛とした微笑みを浮かべた。

 表面上は落ち着いていて冷ややかですらあるが、その瞳には俺を本気で案じているような、どこか清楚で柔らかな光が宿っている。


 「……湊くん。少しだけ、我慢してくださいね」

 「え、おい、佐倉……っ!?」


 俺の制止も虚しく、佐倉の白くて細い指先が俺のTシャツの裾にかけられた。

 彼女は跪くような姿勢で俺の目の前に寄り添い、ゆっくりと服を押し上げていく。


 「じっとしていてください。腕に負担をかけないように脱がせますから」


 至近距離から漂ってくる、石鹸と柔軟剤が混ざり合ったような、清潔感に溢れる彼女の香り。

 伏せられた長い睫毛と、真剣に俺の体を気遣うその表情は、不謹慎なほどに美しい。


 結愛の時の獲物を追い詰めるようなねっとりとした視線とは違う。

 ただ純粋に、俺を清浄な状態に保とうとする優等生としての、あまりにも真っ直ぐな献身。

 それがかえって、俺の理性を激しくかき乱した。


 「……あ、あの、佐倉。顔、近いんだけど……」

 「服を脱がせる以上、距離が近くなるのは物理的な必然です。動かないで」


 佐倉は吐息がかかるほどの距離で、慎重に俺の左腕をシャツから抜いていく。

 彼女の柔らかな指先が、不意に俺の脇腹や肩に触れるたび、全身に電気が走ったような衝撃が突き抜けた。


 「……やはり、少し肌が熱いですね。安静にしておかないといけません」


 ようやくTシャツを脱がせ終えると、佐倉は俺の裸の胸元をじっと見つめ、ほんの少しだけ頬を桃色に染めて視線を逸らした。

 そのわずかな動揺に、彼女の「優等生」としての仮面が少しだけ剥がれたような気がして、俺の鼓動はさらに速度を上げていく。


 「……さあ、新しい服を着せます。少しだけ、私に身を預けてください」


 冷徹な論理で俺を包囲しながら、その指先はどこまでも優しく俺を労わる。

 新しいTシャツの首元を広げながら、佐倉が俺の顔を覗き込んだ。

 そのあまりにも整った顔立ちが至近距離にあるせいで俺の心臓は警鐘のようにうるさく鳴り続けている。

 怪我の熱なのか緊張のせいなのか自分でも分からないほど体が火照っていた。


 「……はぁ」


 不意に佐倉が静かで上品なため息をこぼした。

 彼女は広げていたTシャツから片手を離し呆れたような冷ややかな視線を俺の胸元に落とす。


 「湊くん。そこまでされるとやりにくいのですが」

 「えっ……」

 「心拍数が異常に跳ね上がっているのが肌越しにも伝わってきます。私はただあなたの傷に配慮して着替えを補助しているだけですよ」


 佐倉は一切の表情を変えず淡々と言葉を紡ぐ。

 その清楚で落ち着いた雰囲気のまま放たれる、棘のある言葉に俺は顔から火が出そうになった。


 「べ、別に俺は何も変なことなんて考えてないぞ!佐倉が急に近づくからびっくりしただけで……」

 「そうでしょうか。あなたの脈拍の乱れ方は、明らかに極度に興奮している状態を示しています」


 佐倉の冷たい指先が俺の鎖骨のあたりをツンと軽く突いた。


 「そういう非論理的な反応は包丁を持ったお義姉さんの前だけで十分です。私に対してはもっと冷静な対応をお願いします」


 見事なまでの毒舌。

 しかしその言葉の冷たさとは裏腹に、俺に新しい服を通す彼女の手つきはどこまでも優しく丁寧だった。


 「腕を通しますよ。痛かったら言ってください」


 俺の左腕をそっと支えながらゆっくりと袖を通していく。


 「……悪い、佐倉」

 「謝る必要はありません。ただ次からはもう少し精神を鍛錬しておいてください」


 佐倉は俺の着替えを完璧に終えると、服のシワを綺麗に伸ばしてくれた。


 「これで清潔な状態が保てます。少しは落ち着きましたか?」

 「ああ。おかげでだいぶマシになった。ありがとう」


 俺がお礼を言うと佐倉は小さく頷き脱いだ服を持って立ち上がった。

 しかし彼女が背中を向けたその瞬間。

 耳まで真っ赤に染まっている彼女の横顔が俺の視界の端を掠めた。

 俺の過剰な反応に呆れて毒を吐いていたくせに、彼女自身も実は平静を装っていただけなのだろうか。

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