SOS
包帯を巻き終えた佐倉は救急箱を片付けると、そのまま部屋の隅にあるデスクへと向かった。
「さて。そろそろ本格的に反撃の準備を始めましょうか」
佐倉はノートパソコンを開き、手際よくパスワードを打ち込みながら振り返る。
「反撃って……まさかとは思うけど、結愛にか?」
「ええ。このまま逃げ隠れしているだけではいずれジリ貧になります。彼女の異常性の根源を特定し、無力化する手段を見つける必要があります」
佐倉の冷徹な言葉に俺はごくりと唾を飲み込んだ。
「それに私が追っているあの先生の件も、結愛さんと無関係ではない気がするのです。……これはただの直感ですが」
パソコンの画面にはいくつもの検索ウィンドウが開かれている。
「結愛の過去か……俺も実はアイツのことそんなに詳しくないんだよな」
再婚して結愛が義姉になったのは最近のことだ。と思っていたが、いつの間にかだいぶ時間が経っている事にようやく気づいた。
「結愛は数年前に大学を卒業してるらしいんだ。だから今は社会人のはずなんだけど、ほぼずっと家にいて……」
俺の言葉を聞きながら、佐倉は高速でキーボードを叩き続ける。
「数年前に大学を卒業……なるほど。私が探している先生は新卒で赴任して今年で三年目になります」
佐倉の指が止まり画面にある大学の過去のアーカイブ記事が映し出された。
「もし彼女たちが同じ大学の同じ時期に在籍していたとしたらどうでしょう」
画面を覗き込んだ俺は思わず息を呑んだ。
そこには大学のゼミの集合写真が掲載されていた。
佐倉が指を差した、笑顔で写る若き日の探している先生らしい人。
そしてそのすぐ隣で全く笑っていない冷たい目をした結愛の姿があったのだ。
「嘘だろ……結愛とあの先生が知り合いだったってことか?」
「まだ推測の域を出ませんが明確な接点はありました。新卒三年目の先生と数年前に卒業した結愛さん。年齢的にも完全に合致しますし、彼女が旧校舎の地下の秘密を知っていた事実がそれを裏付けています」
佐倉の理知的な瞳がモニターの光を反射して鋭く光る。
「お母様のことも気になりますね。お母様がなぜあの包丁を持った結愛さんをあそこまで冷静に鎮めることができたのか。大抵の人間であれば、我が子が刃物を持って人に寄っていたら慌てふためくでしょう?」
俺の頭の中でバラバラだった情報が少しずつ不気味な形を成していく。
「その先生とやらの失踪と結愛の狂気……そして俺の母さんまで全部繋がってるって言うのかよ」
「それをこれから暴くのです。私たちはすでに彼女たちの狂った盤上にいるのですから」
俺はパソコンのモニターに顔を近づけて、その古い集合写真を食い入るように見つめた。
結愛とあの先生が隣同士で写っているという事実だけでも十分に衝撃的だった。
だが俺の視線を釘付けにしたのはその二人ではない。
「なあ佐倉……この後ろに写ってる奴」
俺は震える指先で画面の奥を指し示した。
ピントが少しぼやけている背景の木陰。
そこに無表情で立ち尽くしている一人の女子生徒の姿があったのだ。
「この人……雪乃宮さんに似てないか?」
長い黒髪とどこか陰のある目元。
画質が粗いせいで細部までは分からないが、俺の脳裏に焼き付いている雪乃宮さんの面影とどうしても重なって見えた。
まさか、雪乃宮さんまでこの狂った過去の因縁に絡んでいるというのか。
俺の背筋を冷たい汗が伝い落ちる。
しかし俺の言葉を聞いた佐倉は画面と俺の顔を交互に見比べた後ではぁと深い溜め息を吐き出した。
「……どこをどう見たらそう思うんですか?」
佐倉の声は先ほどまでの探偵のような鋭さを失い、完全に呆れ果てた響きを帯びていた。
「え?いやだってこの髪型とか目つきとか完全に雪乃宮さん……」
「全く似ていません。骨格も顔のパーツの配置も雪ちゃんとは完全に別物です。それに雪ちゃん、本当はもっと写真うつりを気にします。こんな感じに写真を撮られる事なんて有り得ません。湊くん、あなたは雪ちゃんから少なくない好意を享受しているのにも関わらずそんな事にも気づかないなんて、どうなんですか?もう少しは他人を深く知ろうと努力したらどうなんですか?それに、」
「わ、わかったよ」
佐倉はピシャリと俺の言葉を切り捨てた。
「そもそも雪ちゃんは私たちと同い年ですよ。数年前の大学のゼミ写真に今とほぼ同じ容姿で写っているわけがないでしょう。少しは考えてください」
言われてみれば確かにその通りだ。
この写真が撮られた数年前なら雪乃宮さんはまだ中学生のはずだ。
「でも俺にはどうしても雪乃宮さんに見えるんだよ……」
「それはあなたの脳が勝手に情報を補完しているだけです」
佐倉は冷ややかな目で俺を見下ろした。
「昨夜から雪ちゃんに対して、異常なまでの動揺を見せていましたからね。あなたのその過剰な意識が単なる見知らぬ他人の顔を雪ちゃんの顔に誤認させているということです」
正論の暴力でボコボコにされ、俺は返す言葉を完全に失ってしまった。
恥ずかしい過去のトラウマが引き起こした幻覚なのか。
それともこの写真には俺の常識を覆すような恐ろしい秘密がまだ隠されているのか。
佐倉は呆れたように小さく息を吐くと、キーボードを叩く指の速度をさらに上げた。
「……いいでしょう。あなたのそのくだらない妄想を今から完全に打ち砕いてあげます」
そう言って佐倉が立ち上げたのは、素人目には全く使い方の分からないプロらしい画像解析ソフトだった。
彼女は大学のアーカイブサイトからそのゼミの集合写真をダウンロードし、ソフトに読み込ませる。
勝手にダウンロードしてもいいのかは俺には分からなかった。
「デジタル画像には必ずノイズの波長や光の反射の規則性があります。それを解析すれば、あなたの見間違いであることは証明可能です」
佐倉の横顔は冷徹なまでの自信に満ちていた。
俺は痛む左腕を庇いながら、黙ってそのモニターの画面を見守るしかなかった。
画面上でいくつかのウィンドウが開き、ヒートマップのような色彩の波が展開されていく。
しかし、解析が進むにつれて、流れるように動いていた佐倉の指先がピタリと止まった。
「……これは」
いつもは氷のように冷静で感情を見せない彼女の声が、ほんの微かに震えていた。
「どうしたんだよ」
俺が恐る恐る尋ねると、佐倉は信じられないものを見るような目でモニターを睨みつけた。
「……私の認識が間違っていました。あなたが雪ちゃんに似ていると指摘したこの人物……」
佐倉はマウスを操作し、背景の木陰に立つその女子生徒の周囲を拡大表示する。
画面には、他の部分とは明らかに異なる、不自然な赤や黄色のノイズの塊がクッキリと浮き上がっていた。
「この人物の輪郭周辺だけ、画像の圧縮率とピクセルレベルの光の反射角が周囲の背景と完全に乖離しています」
「それって、どういうことだよ」
「……合成です」
佐倉の口からこぼれ落ちたその言葉に、俺は全身の血の気がスッと引いていくのを感じた。
「誰かが後から意図的に、この人物の姿をゼミの集合写真にコラージュして貼り付けたということです」
重苦しい沈黙が密室にのしかかる。
俺のトラウマが生んだ単なる見間違いではなかった。
結愛とあの先生が在籍していた数年前の大学のゼミ写真。
そこにわざわざ、現在の雪乃宮さんによく似た謎の少女を合成してアップロードした人間がいるのだ。
いったい誰が、何の目的で。
「……おかしすぎます。大学の公式アーカイブをハッキングしてまで、こんな不気味な細工をして、誰に何の得があるというのですか」
佐倉はギリッと奥歯を噛み締めた。
論理や計算では到底たどり着けない、底知れない悪意と狂気の渦がこの一枚の写真に隠されている。
「なぁ佐倉……これって、結愛も関わってるのか?」
「……今の段階では断言できません。ですが、結愛さん、あの先生、雪ちゃん……すべての点が異常な形で結びつき始めています」
俺たちは今、絶対に開けてはいけない恐ろしいパンドラの箱を開けてしまったのかもしれない。
佐倉は無言のままパソコンの画面を見つめていた。
何かを考えるように指先でデスクをトントンと叩く。
「……直接確認するしかありませんね」
佐倉は自分のスマホを取り出した。
迷うことなく電話帳からある名前をタップする。
画面に表示されたのは『愛しの雪ちゃん』の文字だった。
「おい佐倉、マジで電話するのかよ」
「合成とはいえ、彼女の顔が使われている以上、確認は必須です」
数回のコールの後、電話の向こうから落ち着いた声が聞こえてきた。
『もしもし佐倉さん?どうしたのこんな朝早くに』
スピーカーモードにされたスマホから雪乃宮さんの甘い声が響く。
俺は息を殺してその会話に聞き耳を立てた。
「雪ちゃん。単刀直入に聞きますが、数年前に〇〇大学に足を運んだことはありますか」
『え?〇〇大学?』
雪乃宮さんは少し驚いたような声を上げた。
『ないわよ。そんな大学行ったこともないし、オープンキャンパスにすら参加したことないのだけど』
その返答に俺と佐倉は顔を見合わせた。
「本当に一度もありませんか。ゼミの集合写真にあなたが写っているという事実があるのですが」
『知らないわ。誰かの見間違いじゃないの?』
雪乃宮さんの口調に嘘をついているような様子は全く感じられない。
本当に彼女は何も知らないのだろう。
だとしたらあの合成写真は一体誰が何のために作ったというのか。
沈黙が落ちたスマホ越しに、雪乃宮さんが少し心配そうな声をかけてきた。
『ねえ佐倉さん。なんだか変なこと聞いてくるけど……何かあったのかしら?』
「……いいえ。こちらの調査の過程で少しノイズが混ざっただけです」
『そう?ならいいんだけど。湊くんも一緒みたいだし……2人とも大丈夫?』
俺が一緒にいることまでなぜか察知されている。
だがそれ以上に俺の目を引いたのは、その言葉を聞いた瞬間の佐倉の反応だった。
氷のように無表情だった彼女の顔が、ほんのわずかに歪んだのだ。
「……ええ。全く問題ありません。私たちは極めて安全に行動していますから」
佐倉の口調はいつもより少しだけ早口で、明らかに不機嫌な響きを帯びていた。
「雪ちゃんに心配されるような状況には陥っていません。では」
佐倉はそれだけ言うと、一方的に通話を切ってしまった。
「おい佐倉……なんだよ今の感じ」
「何もありません。彼女の心配りは、この状況においてノイズでしかないと判断しただけです」
佐倉は不機嫌さを隠そうともせず、再びパソコンのモニターに向き直った。




