処置
布団を頭まで被り必死に沈黙を貫こうとする俺。
しかしその過剰すぎる防衛本能がかえって佐倉の疑念を深める結果になっていた。
「……鼓動だけでなく、体温まで急激に上昇しています」
暗闇の中で佐倉の冷ややかな声が布団越しに響く。
「何も言っていないのにそこまで過剰に反応されると、逆に不自然ですよ」
「う、うるさい!別に何もないって言ってるだろ!」
俺は布団の中で身をすくませながら必死に強がる。
この鋭い優等生に雪乃宮さんさんとの関係を知られれば、どんな言葉で解体され、恥をかかされるか分かったものじゃない。
しばらくの間、密室のベッドに重苦しい沈黙が流れた。
佐倉はそれ以上無理に俺の口を割らせようとはしなかった。
諦めてくれたのだろうか。
俺が布団の中でほんの少しだけ安堵の息を吐き出そうとしたその時だった。
「……まあ、今はあなたのプライバシーを尊重しておきましょう」
静かなけれど有無を言わせない冷たさを孕んだ声が耳元に落ちた。
「ですが一つだけ忠告しておきます」
佐倉の体が微かに動き布団越しに俺の背中へとその視線が突き刺さるのを感じた。
「雪ちゃんにはあまり近寄らないでください」
「え……?」
俺は思わず布団から顔を出し、暗闇の中で佐倉の方を振り返った。
彼女の瞳は結愛の狂気とはまた違う底知れない冷たさを宿して俺を見据えていた。
「どういう意味だよ。近寄るなって」
「言葉通りの意味です。理由の一つは、あなたと結愛さんの歪な関係に彼女を巻き込みたくないから」
淡々とした口調の中に明確な拒絶と警告が込められていた。
佐倉が雪乃宮さんを『雪ちゃん』と呼ぶほどの親しい間柄であること。
そして俺という存在が彼女にとって雪乃宮さんに近づけたくない「危険因子」として認識されていること。
結愛の常軌を逸した束縛から逃れてきたはずなのに。
俺は今別の論理と警告という名の見えない鎖でがんじがらめにされているような気がした。
俺は暗闇の中で呆然と佐倉の横顔を見つめる。
結愛の狂気から俺を救い出してくれた。
怪我の手当てをして、自分の部屋に匿ってくれた。
おまけに今はこうして同じベッドで身を寄せ合っている。
だから俺は心のどこかで勘違いしていたのだ。
佐倉は俺のことを少なからず好意的に思ってくれているのだと。
単なるクラスメイト以上の特別な感情があるからこそここまでしてくれたのだと。
しかし今の言葉は俺という存在を単なる厄介者として切り捨てるような冷たさだった。
胸の奥がズキリと痛む。
左腕の切り傷とは違う情けなくて、痛くて、惨めだった。
「……ならなんで」
俺は震える声を必死に押し殺して再び彼女に問いかけた。
「俺が危険な存在ならなんでわざわざ自分の家にまで連れてきたんだよ」
暗闇に俺の掠れた声が溶けていく。
「放っておけばよかっただろ。俺に関わらなければ、佐倉だって安全だったのに」
しばらくの沈黙。
やがて佐倉はゆっくりと俺の方へ振り返り、その理知的な瞳で俺を真っ直ぐに見据えた。
「勘違いしないでください」
平坦で感情の読めない声が密室に響く。
「あなたを保護したのは純粋に、理性的な判断に基づく結果です」
「理性的……?」
「結愛さんの異常行動は制御不能なレベルまでエスカレートしています。もしあなたが彼女によって致命的なダメージを負えば、警察が介入し私の探し物にも重大な支障をきたす可能性が高い」
佐倉は淡々と事実だけを並べ立てる。
「目の前で流血沙汰が起きているのを放置するのは、私自身へのリスクも伴います。つまりあなたを安全な場所へ隔離することが私の目的を達成するための『最適解』だったに過ぎません」
そこに恋愛感情や特別な好意など一切存在しない。
純粋な損得勘定と状況のコントロール。
それが優等生である佐倉の行動原理なのだと冷たく突きつけられた。
俺は自分の自惚れがひどく恥ずかしくなり、ギュッと唇を噛み締めた。
狂気に満ちた義姉と氷のように冷たい優等生。
俺の心休まる場所なんて最初からこの世界のどこにもなかった。
───
浅い眠りから覚めると、隣に温もりはすでになかった。
カーテンの隙間から差し込む眩しい朝日に、俺はゆっくりと身を起こす。
左腕の傷はまだ少しズキズキと痛むが、昨夜のような耐え難い熱は引いていた。
リビングの方から、トントンという規則正しい包丁の音と、出汁のいい匂いが漂ってくる。
俺がのろのろとベッドから抜け出してリビングへ向かうと、エプロン姿の佐倉がキッチンに立っていた。
「おはようございます。ちょうど出来上がったところです」
テーブルの上に並べられていたのは、完璧な和朝食だった。
ふっくらと焼かれた鮭、出汁巻き卵、ほうれん草のお浸し、そして豆腐の味噌汁。
どれも俺が一番好きな、胃に優しい家庭の味だ。
「これ、全部佐倉が作ったのか……?」
「当然です。外注する方が非合理的ですから」
佐倉は無表情のまま、俺の前にご飯をよそう。
「あなたの負傷による体力低下と、精神的ストレスを考慮しました。和食って落ち着きませんか?」
「だからって、こんなに……」
「タンパク質とビタミンを効率よく摂取できるメニューを算出した結果です。さあ、冷めないうちに食べてください」
俺は促されるままに箸を取り、出汁巻き卵を口に運んだ。
甘すぎず、出汁の香りが口いっぱいに広がる、まさに俺のドストライクの味付けだ。
ただの合理的な栄養補給という言葉で片付けるには、あまりにも手が込みすぎている。
昨夜、あれほど冷たく俺を突き放した彼女が、なぜこんなにも俺の好みを把握しているのか。
その矛盾に、俺の胸の奥が再びチクリと音を立てた。
「ごちそうさま。すごく美味しかったよ」
「お粗末さまです。では、傷の様子を見ますから、そこに座っていてください」
食後、佐倉は救急箱を持ってくると、俺の隣に腰を下ろした。
「腕を出してください」
「ああ……」
俺が左腕を差し出すと、佐倉は昨夜の冷徹な態度からは想像もつかないほど、慎重で優しい手つきで包帯を解き始めた。
「少し、血が滲んでいますね。痛みますか?」
「いや、大丈夫」
佐倉の白くて細い指先が、傷口の周りを丁寧に消毒液で拭っていく。
その触れ方は、まるで壊れ物を扱うかのように繊細だった。
冷たい消毒液の感覚よりも、彼女の指先から伝わる微かな体温の方が、ずっと俺の肌に強く残る。
「……佐倉って、意外と不器用なんだな」
俺は思わず、そんな言葉を口にしていた。
佐倉は消毒の手をピタリと止め、怪訝そうに俺を見上げる。
「何がですか。私の処置は医療の基本に忠実なはずですが」
「そうじゃなくてさ」
俺は、丁寧に新しい包帯を巻いてくれる彼女の手を見つめた。
「俺のこと、厄介者みたいに言ってたのに。こんなに優しくしてくれるなんて、言ってることとやってることが全然違うじゃないか」
佐倉の動きが、ほんの一瞬だけ硬直した。
「……錯覚です。二次感染を防ぐための、最も合理的な処置をしているだけで、」
「そう言うことにしといてやるよ」
視線を逸らして淡々と答える彼女の耳が、ほんの少しだけ赤く染まっているのを俺は見逃さなかった。
冷たい論理の鎧の裏に隠された、不器用で矛盾した優しさ。
それが俺の心を少しだけ癒したのは確かなはずだった。




