密談
佐倉に胸を押されベッドに倒れ込んだ俺は抵抗する気力すら失っていた。
天井の無機質な照明を見つめながら、深いため息を吐き出す。
怪我の痛みと精神的な疲労で体が鉛のように重い。
どうやら本当にこの部屋から逃げることは不可能なようだ。
諦めて目を閉じようとした、その時だった。
ガサッという衣擦れの音がして、ベッドのシーツが大きく沈み込んだ。
「……ん?」
俺の隣のわずかなスペースに佐倉が滑り込んできたのだ。
彼女は俺に背を向けるようにして横たわり、薄い掛け布団を自分と俺の体に被せた。
シャンプーの上品な香りが密室のベッドの中にふわりと充満する。
俺は全身の筋肉を硬直させたままただ息を殺していた。
いくら怪我人を保護しているとはいえ、同級生の女子が同じベッドに入ってくるなんて異常すぎる。
結愛の過剰なスキンシップとは全く違うベクトルで心臓が破裂しそうだった。
部屋の中はエアコンの微かな音だけが響き絶対的な沈黙が流れている。
背中合わせの距離から彼女の微かな体温と規則正しい寝息が伝わってくる。
五分。いや十分は経っただろうか。
俺は限界を迎えてついに口を開いた。
「……おい」
暗い部屋の中で俺の掠れた声が響く。
すると背中越しに少しだけ間を置いてから佐倉の平坦な声が返ってきた。
「はい?」
その声は明らかに起きていた人間のそれでありながら、見事なまでにとぼけた響きを帯びていた。
「はい?じゃないだろ」
俺は体を少しだけ起こして、彼女の細い背中を睨みつけた。
「なんで佐倉がこのベッドで寝てるんだよ。やっぱり床で寝るから、離れてくれ」
「却下します。あなたは怪我人です。ベッドで安静にするのが最も合理的です」
佐倉は背を向けたまま冷たく言い放つ。
「だったらなんで一緒に寝てるんだよ。ソファとかあるだろ」
俺の真っ当なツッコミに対し佐倉は小さく寝返りを打ち、今度は俺の方へと向き直った。
暗闇の中でも彼女の理知的な瞳が微かに光っているのがわかる。
「……私の部屋のソファは硬くて睡眠には適していません」
「いや、そういう問題じゃなくて」
「それに結愛さんのようなイレギュラーがいつ襲撃してくるか予測不能です。私が最もあなたの近くで監視と防衛を行うのが最適な配置だと判断しました」
屁理屈だ。
完全な屁理屈だが彼女の平坦な声と真剣な眼差しのせいで謎の説得力を持ってしまっている。
「監視って……」
「ですから無駄口を叩かず早く寝てください。あなたの体力を回復させることが最優先事項です」
佐倉はそう言うと、俺の胸元まで布団をグイッと引き上げ、再び目を閉じてしまった。
冷徹な論理で俺を閉じ込めたはずの優等生が今はなぜか俺のすぐ隣でその柔らかな体温を預けてきている。
部屋の明かりが消え、完全な暗闇と静寂が訪れてからどれくらいの時間が経っただろうか。
俺は目を閉じたまま全く眠りにつくことができずにいた。
隣からは佐倉の微かな寝息が規則正しく聞こえてくる。
どうやら彼女はあの屁理屈を並べた直後にあっさりと深い眠りに落ちてしまったらしい。
「……くそっ」
声に出さずに小さく悪態をつく。
左腕の傷がズキズキと熱を持って痛み出していた。
仰向けの姿勢のままでは傷口が引きつるような感覚がして落ち着かない。
俺は痛む左腕を庇いながら、慎重に体を右側へと傾けた。
ほんの少しだけ寝返りを打って楽な姿勢をとろうとしただけだった。
しかし、狭いシングルベッドの中でその些細な動きは致命的な事故を引き起こした。
「っ……!」
右を向いた瞬間、俺の顔と体にひんやりとした柔らかな何かがピタリと押し付けられたのだ。
暗闇の中で俺の鼻先を佐倉の髪がくすぐる。
彼女も寝返りを打っていたらしく、俺の方を向いて丸まっていたのだ。
俺の胸板に彼女の華奢な肩が触れ、布団越しに重なった足先から彼女の体温が直接伝わってくる。
「うわっ……」
急いで離れようとしたが、左腕の痛みのせいでうまく体を動かすことができない。
それどころか微かに身じろぎした彼女の方からさらに距離を詰めるように俺の胸元へとすり寄ってきてしまった。
いつもは氷のように冷たい視線を向けてくるあの優等生が今は信じられないほど無防備に俺の腕の中に収まっている。
押し付けられた体の圧倒的な柔らかさとシャンプーの甘い香りが俺の理性を激しく揺さぶる。
「…………」
彼女の桜色の唇から漏れた吐息が俺の首筋に触れた。
俺の心臓が警鐘のように激しく早鐘を打ち鳴らし始める。
結愛の時とは違う、純粋な男としての本能的なドギマギが全身を駆け巡る。
このまま彼女が目を覚ましたら変態扱いされて今度こそ本当に通報されてしまうかもしれない。
俺は息を殺したまま時間が過ぎるのをじっと待った。
暗闇の中で佐倉の規則正しい寝息だけが耳に届く。
胸元に押し付けられた彼女の圧倒的な柔らかさとシャンプーの甘い匂いに気が狂いそうだったがなんとか理性を総動員して耐え忍んだ。
そのまま十分ほど経っただろうか。
佐倉の体が完全に脱力し深い眠りに落ちたのが密着した肌越しに伝わってくる。
「……はぁ」
俺は無意識のうちに限界まで止めていた息を細く長く吐き出した。
ようやく訪れた安堵の瞬間。
張り詰めていた緊張の糸が切れて思わず深い安堵のため息が漏れたのだ。
しかし次の瞬間だった。
「何故ため息を吐くのですか」
暗闇の密室に氷のように冷たくて平坦な声がすぐ耳元で響き渡った。
「うわっ!?」
俺は心臓が口から飛び出そうになるほど驚き痛む左腕のことすら忘れて体を仰け反らせようとした。
しかし佐倉の華奢な腕が俺の胸元をスッと押さえつけその動きを完全に封じ込める。
「動かないでください。傷が開きますよ」
暗闇の中で彼女の理知的な瞳がパチリと開いているのが至近距離ではっきりとわかった。
「さ、佐倉……お前ずっと起きてたのかよ!」
「起きていますよ。私の体温に過剰に反応して心拍数を異常に跳ね上げているせいで、うるさくて全く眠れませんでしたから」
佐倉は一切の照れや動揺を見せることなく、淡々と俺の恥ずかしい事実を指摘してくる。
「お、俺のせいじゃないだろ!お前が急にくっついてくるから……っ」
「私が寝返りを打つのは純粋な生理現象です。それに過剰な意味を見出して勝手に緊張し勝手に安堵のため息をつくのは湊くんの自己責任でしょう」
至近距離で浴びせられる正論の暴力。
しかし口ではそんな冷たいことを言いながらも、佐倉は俺の胸元から離れようとはしなかった。
それどころか彼女の体温はさっきよりもさらに俺へと密着しているようにすら感じる。
「それに……私のベッドで私の横にいるという状況下においてため息を吐かれるのは、理解出来ますが、少し不愉快です」
いつも完璧な論理で武装している優等生が暗闇の中でほんのわずかに見せた年相応の感情の揺らぎ。
心臓の音がうるさいと言われてから数十分。
俺は相変わらず一睡もできずに暗闇の中で目を見開いていた。
すぐ隣からは佐倉の規則正しい呼吸が聞こえてくる。
今度こそ本当に寝たのだろうか。
そう思って少しだけ身じろぎしたその時だった。
「……ねえ」
不意に耳元で囁かれた平坦な声に俺はビクッと肩を震わせた。
「お前……まだ起きてたのかよ、いい加減寝よう」
「あなたの心拍数がまだ正常値に戻っていませんから」
佐倉は暗闇の中で俺の胸元に顔を寄せたまま静かに口を開いた。
「この際ですから一つ確認しておきたいことがあります」
「確認って……結愛のことか?」
「いえ。雪ちゃんのことです」
その名前が出た瞬間俺の心臓は別の意味で激しく跳ね上がった。
「ゆ、雪乃宮さんのことか……?」
「はい。あなたと雪ちゃんはどういう関係なのですか」
佐倉の冷ややかな問いかけが密室のベッドに響く。
なぜ佐倉が雪乃宮さんのことを知っているのか。
いやそれよりもなぜ彼女を『雪ちゃん』とそんな親しげに呼ぶのか。
様々な疑問が頭を駆け巡るが、それ以上に俺を支配したのは強烈な羞恥心だった。
雪乃宮さんとの関係。
それを佐倉に話すことなど絶対にできるわけがない。
俺はギュッと目を閉じて口を真一文字に結んだ。
「……言わない」
「なぜですか。情報共有は現状を打破するために必須のプロセスです」
「嫌なものは嫌だ。絶対に言わないからな」
「おかしな人ですね」
佐倉は微かに体をすり寄せてさらに俺を追い詰めてくる。
「もしかして過去に何か酷く恥ずかしいことでもあったのですか」
俺の体がビクンと跳ねる。
「……っ違う!そういうのじゃないから!」
「動揺が隠せていませんよ。ますます怪しいですね」
圧倒的な柔らかさと甘い匂いに包まれたまま至近距離で精神を削られるような尋問が続く。
俺は顔の熱を悟られないように必死に布団を被り直した。
結愛の狂気とはまた違う意味でこの優等生との密室は恐ろしい。




