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論理という名の鎖

 深い海の底から浮上するようにゆっくりと意識が戻ってきた。

 重い瞼をこじ開けると視界に飛び込んできたのは真っ白な天井だった。


 俺の部屋の天井じゃない。

 エアコンの微かな稼働音と、ツンとする消毒液の匂いが鼻を突く。


「……ここは」


 乾いた喉から掠れた声を絞り出して体を起こそうとした。


「っ痛……!」


 左腕に鋭い痛みが走って思わず顔をしかめる。

 視線を向けると俺の左腕には真っ白な包帯が綺麗に巻かれていた。


 結愛の包丁が掠めた傷だ。


 その瞬間あの玄関での血みどろの修羅場がフラッシュバックして全身から冷や汗が噴き出した。


「無理に動かない方がいいですよ。傷が開きますから」


 部屋の隅から氷のように冷たくて静かな声が聞こえた。

 見慣れた制服姿ではなく、ラフな部屋着に身を包んだ佐倉がベッドの脇に立っていた。

 手には水の入ったグラスを持っている。


「佐倉……」


 俺は周囲を見渡した。

 無機質で物が少なくどこか殺風景なこの空間は間違いなく佐倉の部屋だった。


 「水飲みますか」


 佐倉が差し出したグラスを受け取り俺は一気に水を飲み干した。

 冷たい水が喉を潤すと少しだけ頭がはっきりとしてくる。


「俺……気絶してたんだよな」

「ええ。出血と極度の緊張による神経反射でしょう。私が応急処置をしてここまで運びました」


 佐倉はグラスを受け取ると、淡々とした口調で事実を告げた。


「ここまでって……どうやって結愛から俺を連れ出したんだよ?」


 俺は信じられない思いで佐倉の顔を見上げた。

 気絶する直前の結愛は完全に正気を失い、俺の血を舐めるほどの狂気に支配されていた。

 佐倉が包丁を突きつけたとはいえ、素直に俺を渡すとは到底思えない。

 俺の質問に佐倉は一切の表情を変えることなく答えた。


「あなたのお義母様です」

「……え?」

「私が結愛さんと対峙していた直後にお義母様が外出から帰宅されたんです。彼女が出てきて、結愛さんを鎮めてくれました」


 あの義母さんが。

 確かに日中はほとんど家にいないが、たまたま帰ってきたタイミングだったというのか。


「義母さんが結愛を……それで結愛は大人しくなったのか?」

「ええ。少なくとも包丁は手放しました。ですから、私はあなたを連れてその場を離れたんです」


 俺はホッと胸を撫で下ろした。

 義母さんが間に入ってくれたなら最悪の事態は免れたはずだ。

 だがすぐに一つの巨大な疑問が俺の頭をよぎった。


「……なあ佐倉」


 俺はベッドのシーツをギュッと握りしめた。


「義母さんが帰ってきて場が収まったなら、なんで俺は自分の家のベッドじゃなくて佐倉の家にいるんだ?」


 俺の怪我の処置をするなら家で義母さんがすればいいはずだ。

 わざわざ佐倉が気絶した俺を自分の家まで運び込む理由がない。

 俺の問いかけに佐倉は冷たい瞳で俺をじっと見下ろした。


「非合理的だからです」

「非合理的……?」

「あなたをあの家に置いていくことは極めて生存リスクが高いと判断しました」


 佐倉の声は平坦だがそこには有無を言わせない絶対的な圧があった。


「結愛さんの異常性はもはや一線を越えています。そして……それを力でねじ伏せたお義母様も私から見れば、決して安全な存在とは認識できませんでした」


 佐倉の言葉に俺は背筋が凍りつくのを感じた。


「当面の間あなたはこの部屋で保護します。私の目の届く範囲から一歩も出ないでください」


 結愛の狂気から逃れた先で待っていたのは冷徹な優等生による『保護』という名の新たな監禁だった。

 安全すぎるがゆえに逃げ場のない密室。


 「いや……でもやっぱり俺、帰るよ」


 俺はズキズキと痛む左腕を庇いながら、ゆっくりとベッドから足を下ろした。


「保護してくれるのはありがたいけど、流石にこう、同級生の女子の家に泊まるわけにはいかないだろ」


 それに義母さんが帰ってきているなら何とかなるはずだ。

 結愛のあの異常な行動も親の目があれば少しは収まるかもしれない。

 俺は床に置かれていた自分の靴に足を入れようとした。

 しかしその前に佐倉がスッと立ち塞がり氷のように冷たい視線で俺を見下ろした。


「愚かな判断ですね。あなたのその楽観主義は命取りになりますよ」

 「楽観って……でも義母さんが結愛を止めてくれたんだろ?」


 俺が反論すると佐倉は小さくため息をついた。


「あなたが気絶した後のお義母様の対応は正常な人間のそれではありませんでした」


 佐倉の言葉に俺の動きがピタリと止まる。


「血まみれの包丁と意識を失った息子を前にして、彼女は警察を呼ぶことも救急車を呼ぶこともせずただ『あとは私がやっておくから帰りなさい』と私に告げたのです。まるで……こういう事態に慣れきっているかのように」


 背筋に冷たいものが走った。


「あそこに帰ればあなたは再び結愛さんの狂気の中に沈められるだけです。お義母様があなたを守ってくれるという保証はどこにもありません」


 佐倉は俺の目の前まで近づきその理知的な瞳で俺を真っ直ぐに射抜いた。


「今このドアを開けて帰宅した場合あなたの精神と肉体が無事でいられる確率は極めて低いと推測します」

「でも……佐倉にこれ以上迷惑をかけるわけには」

「迷惑ではありません。これは私の意思による行動です」


 佐倉の冷たく細い指先が包帯の巻かれた俺の左腕にそっと触れた。


「っ……」


 傷口に微かに圧がかかり、俺は思わず顔を歪めた。


「痛みますか。当然です。あなたは今肉体的にも精神的にも限界を超えています」


 佐倉の指先が腕から肩へ、そして俺の頬へとゆっくり滑り上がってくる。


「私の部屋なら結愛さんは手を出せません。私があなたを完璧に管理し傷を治して差し上げます」


 その声は淡々としているのにどこか呪いのように俺の耳に絡みついてくる。

 感情的な結愛の束縛とは全く違う。

 純粋な論理と正論で逃げ道を塞ぎ逃げる気力すらも奪い取っていく冷徹な支配。


「大人しく寝ていてください。これは提案ではなく指示です」


 頬に触れていた佐倉の手が俺の胸板を軽く押した。

 力は全く入っていなかったのに、俺の体は重力に引かれるようにベッドへと倒れ込んでしまった。

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