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泥沼へと

 結愛は笑顔で俺の背中を押そうとした。

 その細い手には不自然なほど強い力がこもっている。


「湊くんはリビングに戻ってて」

「でも……」


 俺が戸惑っていると、鉄の扉の向こう側から声が響いた。


「居るのは分かっています」


 それは決して大きな声ではなかった。

 しかし氷のように冷たくてよく通るその声に俺は聞き覚えがあった。

 佐倉だ。


「警察を呼ぶ前に開けてください」


 淡々とした冷徹な脅迫が密室に響き渡る。

 俺はハッとして結愛の顔を見た。

 結愛の笑顔はすでに完全に崩れ落ちていた。

 夜叉のような凄まじい形相でドアを睨みつけている。

 ガチャガチャと乱暴にドアノブが回される音がした。

 無理やりこじ開けようとしているのだ。


「佐倉なのか……?」


 俺が扉に近づこうとすると、結愛が両手を広げて立ち塞がった。


「ダメだよ、湊くん。行かないで」

「でも警察って……なんかあったのかよ」

「あの女が頭おかしいだけだよ?」


 結愛はヒステリックに俺の胸にすがりついてきた。

 その時再び扉越しに佐倉の声が聞こえてきた。


「湊くんのスマートフォンは現在電源が切られています。昨夜から不自然に連絡が途絶えました。あなたが彼を監禁していると見なすには十分な状況証拠です」


 俺の頭の中で何かがパリンと割れる音がした。

 スマホは俺の目を休めるためじゃなかった。

 外部との連絡を絶つために結愛が隠していたのだ。

 俺の心臓が急激に冷えていく。


「結愛……お前佐倉からの連絡を無視してたのか?」

「違うよ?湊くんのためなの。あんな女と関わったら湊くんがダメになっちゃうから」


 結愛は必死に俺の服を掴んで首を振る。

 しかし扉の向こうの佐倉は一切の容赦を見せなかった。


「十秒数えます。開けなければ即座に通報します。十……九……」


 無機質なカウントダウンが始まる。

 結愛が作り上げた完璧で甘い箱庭。


 「……八……七……」


 無機質なカウントダウンが扉の向こうから響き続ける。

 俺の腕にすがりついて首を振っていた結愛の動きがピタリと止まった。


「はぁ……わかったわ」


 その声は信じられないほど静かで平坦だった。

 結愛は俺からスッと離れると、感情の完全に抜け落ちた顔でキッチンへと歩いていく。


「おい結愛どうするつもりだ」


 俺の問いかけに結愛は答えない。

 キッチンの引き出しを開ける微かな金属音が聞こえた。

 結愛は後ろ手に何かを隠し持ったままゆっくりと玄関へ戻ってきた。

 その顔にはいつもの完璧で愛らしい笑顔が貼り付けられている。


「開けるよ」


 結愛は躊躇うことなくドアノブを回し、チェーンもかけずに鉄の扉を全開に放った。


 真夏の熱気が薄暗い玄関にどっと流れ込んでくる。

 扉の向こうにはスマホを片手に持った佐倉が立っていた。


「警察を呼ぶ必要はないわ、佐倉さん」


 結愛は背中に右手を回したまま、余裕たっぷりの笑顔で小首を傾げた。


「ただの姉弟喧嘩ですけど、何か問題でもあったかしら」


 佐倉は結愛の作り物めいた笑顔を氷のような瞳で真っ直ぐに見つめ返した。


「姉弟喧嘩ですか。それは随分と物騒な喧嘩ですね」


 佐倉の視線が結愛の背後に隠された右腕へとスッと向けられる。


「そんなものを後ろ手に隠していては弟さんが怪我をしてしまうのではないですか?」


 佐倉は結愛が包丁を隠し持っていることに完全に気がついていた。

 それでも佐倉の顔に恐怖や焦りの色は一切ない。

 むしろこの異常な状況をチェス盤の上から見下ろしているような底知れない余裕すら感じさせた。


 「ふふっ何のことかしら」


 結愛の笑顔は微塵も揺るがない。


「湊くんは私のお世話がないと何もできないダメな子なの。だから私が少し厳しくしつけをしていただけよ」

「しつけという名の監禁と通信遮断ですか」


 佐倉は小さくため息をついて見せた。


「あなたの愛情表現は稚拙すぎて理解に苦しみます。これでは彼を壊すだけです」

「泥棒猫さんには私たちの深い絆なんて一生理解できないわよ」


 一触即発の状況でありながら二人の間には奇妙なほどの静寂が横たわっていた。

 狂気に満ちた義姉と機械のように冷徹な優等生。

 互いに一歩も引かず微笑みと無表情のまま命を削り合うような心理戦が繰り広げられる。

 玄関という狭い空間で二人の致死量の殺意と計算が静かに火花を散らしていた。


 二人の間の静寂は極限まで張り詰めていた。

 結愛の瞳の奥にどす黒い炎が揺らめいたのが見えた。


「……邪魔な泥棒猫」


 結愛の唇が微かに動き、背中に隠していた右手が不自然に引き絞られる。

 銀色の刃が薄暗い玄関の光を反射して冷たく光った。


 刺す。


 結愛は本当に佐倉を刺すつもりだ。

 俺の脳が本能的な危険信号をガンガンと鳴らし、全身の筋肉が反射的に弾けた。


「やめろ結愛!」


 俺は叫びながら佐倉を庇うように二人の間に無理やり体を割り込ませた。

 ドスッという鈍い音が響く。

 結愛が勢いよく振り抜いた包丁の刃先が俺の左腕を鋭く掠めた。


 「っ……!」


 熱いような冷たいような奇妙な痛みが腕に走った。

 白いTシャツの袖がパックリと裂けそこから鮮やかな赤がじわじわと滲み出してくる。


 ポタッ。

 フローリングの床に俺の血が落ちて小さな赤い花を咲かせた。

 静まり返った玄関に血の匂いがふわりと漂う。


「……え?」


 結愛の顔から余裕に満ちた完璧な笑顔が完全に剥がれ落ちた。

 彼女の手から力が抜けカランと甲高い音を立てて包丁が床に落ちる。


「湊……くん?」


 結愛の大きな瞳が俺の腕から流れる赤い血に釘付けになっていた。

 自分が愛してやまない絶対的な存在を自らの手で傷つけてしまった。

 その事実が彼女の精神のストッパーを完全に破壊しようとしていた。


 「私が……湊くんを……?」


 結愛は両手をわななかせながら信じられないものを見るように俺の腕を見つめている。

 普通の人間ならここで後悔して正気に戻るはずだ。

 しかし彼女はすでに人間の理解を超えた化け物だったのだ。


「ああ……湊くんの血……すごく綺麗」


 結愛の口からこぼれ落ちたのは謝罪ではなく、恍惚とした吐息だった。

 彼女の瞳孔が完全に開ききり、狂気のハイライトが宿る。

 結愛は床に膝をつくと俺の腕から滴り落ちる血をすくい取るように自分の細い指先で拭った。


「ダメだよ湊くん。こんなに血を流したらもったいない」


 そして彼女はその血に染まった指先をうっとりとした表情で自分の口へと含んだのだ。


「結愛……お前……っ」


 俺は底知れない恐怖に全身の粟が立つのがわかった。


「私が治してあげる。湊くんの痛みは全部私が舐めて綺麗にしてあげるからね」


 結愛は這うようにして俺の足元にすがりつき血の流れる俺の腕へと甘い唇を近づけてくる。


 結愛の異常な行動。

 その光景を背後で見ていた佐倉が動いた。

 カチャリと冷たい金属音が足元で鳴る。

 結愛が落としたはずの包丁を佐倉が躊躇うことなく拾い上げたのだ。


「離れなさい」


 絶対零度の声が狭い玄関に響き渡った。

 俺が驚いて振り返るとそこには鋭い切っ先を結愛の首元にピタリと突きつける佐倉の姿があった。

 普段の理知的な優等生の面影はどこにもない。

 その瞳には一切の感情がなくただ純粋で冷酷な殺意だけが宿っていた。


「彼から今すぐ離れないならその頸動脈を切り裂きます」


 佐倉の言葉に迷いやハッタリは全く感じられなかった。

 合理的な計算の末に彼を助けるための最善手として本気で刺す気だ。

 しかし結愛は包丁を突きつけられても全く動じなかった。

 俺の血で真っ赤に染まった唇を歪めて恍惚とした笑みを浮かべる。


「ふふっ泥棒猫のくせに随分と生意気ね」


 結愛は包丁の刃先を全く恐れることなくゆっくりと立ち上がった。


「湊くんの血に濡れた私を殺せるものなら殺してみなさいよ」


 異常な愛に狂った人間と冷徹な計算で刃を振るうサイコパス。


 常軌を逸した二人の少女の致死量の殺意が俺を挟んで激突する。

 腕の傷からの出血と極限状態の恐怖で俺の視界は急激に暗く歪み始めていた。


「やめろ……二人とも……」


 俺の掠れた声は誰の耳にも届かない。

 ギリギリと精神を削るようなヒリヒリとした重圧の中。

 俺の意識はついに限界を迎え、真っ暗な闇の底へと完全にシャットダウンしてしまった。

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