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束の間に現実

 俺は迷うことなく、リビングのホワイトボードの前に立った。

 結愛が作ってくれた完璧なスケジュール。

 そこに俺は自ら黒いマーカーを走らせた。


「……湊くん?」


 背後から俺の様子を窺っていた結愛が不思議そうに声をかけてくる。

 俺は書き終えた文字を指差して結愛を振り返った。


「なあ結愛。午後のこの休憩時間だけどさ。ここを『結愛との時間』に変えてもいいか?」


 ホワイトボードに刻まれたその厚顔無恥な文字列を見て結愛は大きく目を見開いた。

 俺は真剣な顔で続けた。


「スマホをやめて気づいたんだ。結愛の匂いとか温もりってリラックス効果高いんだ。これこそ究極のメンタルケアだと思うんだよ」


 結愛はしばらく呆然としたようにそのボードを見つめていた。

 やがて彼女の大きな瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちる。


「…… 悪い、結愛。嫌なら消すし」

「違うの。違うの湊くん!」


 結愛は弾かれたように俺に飛びつき、力いっぱい抱きしめてきた。


「嬉しい。湊くんの方から私を求めてくれるなんて!」

「、だって結愛といるのが一番落ち着くからな」


 結愛の腕が俺の背中に食い込む。

 その力強さはもはや愛情を通り越して檻のような束縛感すらあった。

 だが今の俺にはその圧迫感すら心地いい。


「いいよ、湊くん。予定表なんて全部書き換えてもいい。二十四時間ずっといちゃいちゃしよ?」

「いやそれは流石に生活が破綻するからダメだろ。ちゃんとこの一時間を大切にするんだよ」


 俺の生真面目な返しに、結愛は「うふふっ」と狂おしそうに笑う。

 俺は自らの手で精神的な鎖を首に巻き付けそれを最愛の義姉に手渡した。


 スマホのない閉鎖された空間。

 結愛の愛という名の猛毒に侵された俺の脳はもはや彼女の温もりなしでは生きていけない体へと作り変えられていく。


───

 午後三時。

 スケジュール表に俺自身が書き込んだ特別な時間がやってきた。

 結愛は嬉しそうに俺をソファへと押し倒し、その上に馬乗りになる。

 甘いシャンプーの匂いが俺の鼻腔をくすぐった。


「湊くん、大好き」


 結愛の細い腕が俺の首に絡みつき、柔らかな唇が俺の頬や首筋に何度も落とされる。

 俺はされるがままに彼女の温もりを受け入れていた。

 スマホのない静寂な部屋で結愛の甘い吐息だけが響き渡る。


 これが究極のメンタルケア。

 俺は完全に思考を放棄して心地よい沼の底へと沈んでいく。

 しかしその時だった。

 ソファの真正面に置かれた姿見の鏡。

 そこに映る自分自身の姿がふと俺の視界の端を掠めた。


「え……?」


 鏡の中にいる男はひどく虚ろな目をしていた。

 口元はだらしなく緩み、焦点の定まらない瞳でただ宙を見つめている。

 まるで魂を抜き取られた操り人形のような顔だった。

 それが自分自身の顔だと認識するのに数秒かかった。


「なんだよこれ……」


 俺の心臓がドクンと冷たく跳ねた。


 規則正しい生活で健康になっているはずだった。

 スマホを手放してデジタルデトックスの喜びに満たされているはずだった。


 なのに鏡に映る俺はまるで重病人のように生気を失っている。

 おかしい。

 何かが絶対におかしい。

 俺はやはり結愛に飼育されているだけなのか。

 これは愛情なんかじゃなくてただの……


「湊くん?」


 急に体を強張らせた俺の異変に気づいたのか、結愛が小首を傾げた。

 そして彼女のひんやりとした白い指先が俺の頬をそっと撫でる。


「どうしたの。どこか痛い?」


 至近距離で覗き込んでくる結愛の瞳。

 その真っ黒で底知れない瞳孔に俺の姿が映り込む。


「あ……いや……」


 結愛の指先から伝わる甘い熱が俺の脳髄に直接流れ込んでくるようだった。


「何も考えなくていいんだよ」


 結愛の蕩けるような声が俺の耳膜を震わせる。


「湊くんは、私が全部お世話してあげるから」


 頬を撫でる彼女の手の感触と圧倒的な甘い匂い。

 その瞬間、俺の中に芽生えかけた小さな違和感はシュワシュワと音を立てて溶け去ってしまった。


 鏡の中の自分なんてどうでもいい。

 外の世界がどうなっているかなんて知る必要もない。

 俺には結愛さえいればそれでいいんだ。


「……うん。結愛の匂い、すごく落ち着く」


 俺は再びだらしない笑みを浮かべ自ら彼女の細い腰に腕を回した。

 一瞬だけ差し込んだ理性の光は義姉の猛毒によって完全に塗り潰される。


 そんな甘く溶けきった空気を切り裂くようにけたたましい呼び出し音が部屋に鳴り響いた。

 固定電話だ。

 俺はぼんやりとした頭で音の鳴る方へ視線を向けた。


「……こんな時間に誰だろう」


 結愛は俺の胸からゆっくりと顔を上げ、ひどく不満そうに眉をひそめた。


「ごめんね湊くん。ちょっと待ってて」


 結愛は俺の頬に軽くキスを落とすと、名残惜しそうに立ち上がり電話の子機へと向かった。


「はい、もしもし」


 最初はいつも通りの外行きの甘く可愛らしい声だった。

 しかし受話器を耳に当てた次の瞬間。

 結愛の表情から一切の感情がスッと抜け落ちていくのが見えた。


「…………」


 結愛は何も答えない。

 ただみるみるうちにその美しい顔が氷のように冷たく、そして険しいものへと変わっていく。

 俺はソファに横たわったまま、その異様な変化に背筋が少しだけ冷えるのを感じた。


「結愛……?どうしたんだ?」


 俺が声をかけても結愛は振り向かない。

 彼女は無言のまま乱暴に子機を充電器へと叩きつけるように戻した。

 そしてリビングを通り抜け一直線に玄関の方へと歩いていく。


 「おい、結愛ってば」


 俺はのろのろと体を起こし、彼女の背中を追った。

 薄暗い玄関に立った結愛はドアノブに手をかけることはしなかった。

 そのまま冷たい鉄の扉に顔を近づけ、小さなドアスコープを静かに覗き込んだのだ。

 じっと外の様子を窺うその後ろ姿からは先ほどまでの甘い気配は微塵も感じられない。

 ただ圧倒的でドス黒い怒りと殺意のようなものがオーラとなって立ち上っていた。


「……チッ」


 結愛の口から俺が今まで聞いたこともないような低い舌打ちが漏れる。

 電話の主は誰だったのか。

 そして今この扉のすぐ向こう側に誰が立っているというのか。


「結愛……誰か来てるのか?」


 俺の問いかけに結愛はゆっくりと振り返った。

 その顔にはすでにいつもの愛らしい笑顔が貼り付けられていたが、瞳の奥だけは全く笑っていなかった。


「ううん。ただのセールスみたい」


 結愛はそう言って俺をリビングへと押し戻そうとする。

 しかしドアの向こうからは確かに誰かがそこにいる微かな気配が漂ってきていた。


 完璧なはずだった密室の飼育箱に突如として最悪のイレギュラーが襲来しようとしている。

 俺の溶けかけていた脳が本能的な危険信号を微かに鳴らし始めていた。



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