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非日常

 翌朝、俺が目を覚ますとリビングの壁に見慣れない巨大なホワイトボードが設置されていた。

 そこには色とりどりのマーカーでびっしりと何かが書き込まれている。


「おはよう湊くん」


 エプロン姿の結愛が満面の笑みでコーヒーを淹れながら、俺を振り返った。


「結愛おはよ……って何だよ、これ」

「湊くんのための完璧な生活スケジュール表だよ」


 俺は目をこすりながらホワイトボードの前に立った。

 起床時間から就寝時間まで分単位でびっしりと予定が組まれている。


 七時起床。

 七時十五分から朝食。

 八時から一時間の娯楽タイム。

 九時から休憩という名の結愛への膝枕タイム。


「な、なあ結愛。これマジで俺のスケジュールなのか?」

「そうだよ」


 結愛は嬉しそうに俺の腕に抱きついてきた。


「家にずっといるなら規則正しい生活をしないと不健康になっちゃうからね」


 俺は感動で震えそうになった。

 ただでさえ夏休み中でだらけきっている俺の生活をここまで完璧に管理してくれるなんて。


「すげえな、結愛」


 俺は興奮気味にホワイトボードを指差した。


「俺一人じゃ絶対こんな規則正しい生活できないから助かる」

「ふふっ、どういたしまして」


 結愛は俺の無邪気な反応にひどく満足そうな笑みを浮かべた。

 俺は気づいていなかった。

 彼女の目がペットの飼育日記を眺めるようなネットリとした光を帯びていたことに。


 スケジュールに従って最高に美味しい朝食を食べ終えた俺は次の予定を確認した。


「えっと次は……」


 俺の視線がホワイトボードの十時の欄でピタリと止まる。

 そこには可愛らしい文字で『トイレの時間』と書かれていた。


「な、なあ結愛」


 俺は冷や汗をかきながら振り返った。


「このトイレの時間って何なんだ?」

「言葉の通りだよ湊くん」


 結愛は洗い物をしながら鼻歌交じりに答える。


「決まった時間に排泄する習慣をつければ腸内環境もバッチリだからね」

「いやでもこればかりは時間決められても。それにさ、なんか違くないか?こういうのってここまで細かくやらないだろ」

「大丈夫だよ、湊くん」


 結愛は濡れた手を拭いて、俺の頬を優しく撫でた。


「私湊くんの毎日の食事の量から消化時間まで全部計算して完璧なタイミングで設定してるから」

「マジかよ」


 俺は本気で驚愕した。


「そこまで計算してるのかよ」


 俺は純粋に結愛の計算能力と俺への過剰な気遣いに少し感動してしまった。


「じゃあちょっと頑張ってくる」

「うんいってらっしゃい湊くん」


 結愛は優しく俺の背中を押した。


「私が一緒に入ってマッサージしてあげようか?」

「やめてくれ」


 リビングに残された結愛は俺の背中を見送りながらうっとりと両頬に手を当てる。

 湊くんの食べるものも寝る時間も排泄のタイミングも全部私が決めてあげる。

 この家の外には一歩も出させない。

 私だけの完璧な飼育箱の中で湊くんは私のお世話なしでは生きていけない体になればいい。


 トイレからスッキリした気分でリビングに戻ると結愛が待ち構えていた。

 彼女の手には小さな鍵付きの箱が握られている。


「湊くん」

「結愛」


 結愛は嬉しそうに微笑むとホワイトボードの時計を指差した。


「じゃあ次は十時半からの予定だね」


 ボードには『デジタルデトックス(スマホお預かり)』と書かれている。


「スマホ没収するのか?」

「没収じゃないよ。湊くんの目を休めるためのあくまで一時的なお預かり」


 結愛は鍵付きの箱を開けて俺に差し出してきた。

 俺は少しだけ躊躇したが、すぐに納得して自分のスマホを箱に入れた。


「最近夜更かしして動画とか見すぎてたから助かる」


 結愛がパチンと箱の鍵を閉める。


「スマホのブルーライトは脳に毒だからね」

「確かに。最近スマホ依存症気味だったからちょうどよかった」


 俺の言葉を聞いて結愛は目を細めて恍惚とした表情を浮かべた。


「湊くんは本当に素直でいい子だね」


 俺はスマホを手放したことで妙な達成感すら感じていた。

 これで完全に外部からの連絡はシャットアウトされる。

 学校の連絡もウザい広告メールも何も気にする必要がない。

 結愛が用意してくれた完璧なスケジュールと美味しいご飯だけがあればいい。

 俺の頭の中は完全にデジタルデトックスの喜びに満たされていく。


「湊くんは外の世界の汚い情報なんて見なくていいからね」


 結愛はリビングに戻ってくると俺の隣にピタリとくっついて座った。


「これからはずっと私が湊くんの世界になってあげる」

「それは、なんというか」


 スマホを箱に入れられてから数時間が経過した。

 最初はデジタルデトックスだと喜んでいた俺だったが、手持ち無沙汰な時間は確実にやってきた。

 テレビを見てもいまいち集中できないし、ゲームもスケジュールで決められた時間が終わってしまった。


「なんか暇だな……」


 リビングのソファでゴロゴロしながら俺は思わずぼやいた。

 キッチンで夕食の仕込みをしていた結愛がすぐに手を止めてこちらへやってくる。


「どうしたの湊くん。退屈になっちゃった?」

「あぁ。スマホがないと意外とやることがなくて」

「そっか。スマホの代わりになる楽しいことが必要なんだね」


 結愛はふわりと甘い匂いを漂わせながら俺の隣に腰を下ろした。


「じゃあ代わりに私が遊んであげる」


 言うが早いか結愛は俺の膝の上にまたがるようにして乗りかかってきた。


「っ結愛?」

「湊くんの暇つぶしなら私がいくらでも相手してあげるよ」


 彼女の白い腕が俺の首に回され柔らかな胸が俺の胸板にピタリと押し付けられる。

 至近距離で見つめてくる結愛の瞳は蕩けるように甘く、そしてどこか底なし沼のように暗かった。


「ほらスマホの画面なんかより私の顔を見て。もっと私のこと触っていいよ」


 結愛は俺の手を取ると自分の腰や太ももへとゆっくり誘導していく。


「いや、でもこんなの流石にマズいだろ」

「姉弟なんだから普通でしょ?それに湊くんも本当は嬉しいくせに」


 耳元で囁かれる甘い吐息に俺の理性は急速に溶かされていく。

 確かにスマホのブルーライトよりも、結愛の温かい体温の方がずっと目に優しいし健康的かもしれない。


 俺は自分の中の謎のポジティブな理屈に流されるまま、彼女の過激なスキンシップの沼へとズブズブに引きずり込まれていった。

 結愛の匂いと感触だけが俺の脳内を埋め尽くし思考能力が完全に奪われていく。

 スマホなんてものは最初から必要なかったのだ。

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