無意識の侵食
結愛が背を向けて歩き出そうとしたその時だった。
「お待ちください」
冷ややかな佐倉の声が結愛の歩みを止めた。
結愛がゆっくりと振り返ると、佐倉はいつも通りの無表情で立っていた。
「私のような一方的な状況を嫌う人間にとって、得体の知れない相手に借りを作ったままにするのは最大のストレスです」
佐倉はリュックから小さな手帳を取り出した。
「今この場でその『貸し』を清算させていただきます」
「清算?あなたに私を満足させるだけのものが払えるの?」
結愛は小馬鹿にしたように鼻で笑う。
「ええ。あなたが最も欲しているものを提供します。……湊くんの学校での正確な情報です」
その言葉を聞いた瞬間、結愛の目の色が変わった。
佐倉は手帳のページをめくり、淡々と読み上げ始める。
「湊くんは美咲さんと別れて以来、クラスでは完全に孤立しています。昼休みは中庭の隅のベンチか図書室の奥の席で一人で過ごすことがほとんど。部活動にも属していないため放課後は真っ直ぐに帰宅するか旧校舎へ行くかの二択です」
結愛は黙って佐倉の言葉に耳を傾けていた。
「さらに付け加えるなら彼は最近ひどく寝不足のようです。授業中も上の空であることが多く精神的な疲労が限界に達しているように見受けられます。……彼をそこまで追い詰めている原因が何なのか私にはわかりかねますが」
佐倉の刺すような視線が結愛を真っ直ぐに射抜く。
結愛は口角を歪めてフフッと笑い声を漏らした。
「……なるほどね。よく観察してるじゃない泥棒猫さん」
「私はただのクラスメイトとして客観的な事実を述べたまでです」
佐倉は手帳をパタンと閉じて、リュックにしまった。
「これで先ほどの件は相殺。貸し借りはゼロで対等です。これ以上私に干渉しないでいただきたい」
佐倉はそう言い残すと、今度こそ結愛に背を向けて駅の改札へと歩き出した。
結愛はその細い背中を見送ることはせずすぐさま自分のスマホを取り出した。
佐倉から得た情報を元にした湊の完全なスケジュールの把握。
そして湊が精神的に追い詰められているという事実。
義姉にとってそれは自分の庇護欲を満たす何よりも価値のある極上のスパイスだった。
「対等だなんて思い上がりもいいところだけど……まあ役に立ったから許してあげる、けれど」
佐倉が関係の清算を宣言し歩き出そうとしたその背中に結愛の場違いなほど明るい笑い声が突き刺さる。
「あははっ!おかしいな」
佐倉の足がピタリと止まる。
結愛はゆっくりとヒールを鳴らして、佐倉の背後へと近づいていった。
「清算とか偉そうなこと言っておいて適当な嘘をついて逃げるつもり?」
「……嘘とは何のことでしょうか」
佐倉は振り返ることなく低い声で答えた。
「湊くんが美咲ちゃんと別れたのは夏休みに入った後なの。私がちゃんと聞いてるんだから間違いないわ」
結愛の声から笑い気配が消え底冷えのする冷酷な響きへと変わる。
「『別れて以降クラスで孤立している』なんて状況はまだ起こり得ないのよ。だって今はまだ夏休みの真っ最中なんだから。未来の話でもしているつもり?」
駅前の喧騒の中でその二人の間だけが不自然な静寂に包まれた。
結愛は佐倉の耳元に顔を寄せネットリと囁きかける。
「あなた、そこまで脳が拙いわけでもないでしょ?そんな簡単な時系列の矛盾に気づかないなんておかしいわよね」
結愛の指摘は完璧だった。
佐倉は即座に結愛との関係を断ち切るため相手が最も喜びそうな「湊が弱っている」という偽の情報を適当に繋ぎ合わせて投げ与えたのだ。
しかしヤンデレの義姉が持つ愛する弟に関する異常なまでの記憶力と執着心を彼女は完全に読み違えていた。
「……失言でしたね」
佐倉はゆっくりと振り返り氷のような視線を結愛に向けた。
「彼が別れる前からすでに孤立の兆候があったことを私が拡大解釈して伝えてしまったようです。訂正します」
「ふふっ。苦しい言い訳ね」
結愛は佐倉の顔を覗き込み、その瞳の奥にある僅かな綻びを探ろうとする。
「私を適当な餌で追い払おうとしたの?それとも……湊くんに関して私が知らない『別の何か』を隠しているの?」
佐倉は一切の表情を変えずに結愛の視線を受け止めている。
しかし、この一瞬の嘘の露見が二人の心理戦のパワーバランスを大きく結愛へと傾けさせたのは紛れもない事実だった。
貸しを返すどころか相手に弱みと不信感を与えてしまったのだから。
「まあいいわ。嘘つきの泥棒猫さん」
結愛は踵を返して、今度こそ自分の家の方へと歩き出す。
「あなたの言葉はもう二度と信じない。湊くんのことは私が自分で調べるから」
数歩歩いてから結愛は肩越しに冷たい笑みを投げかけた。
「でも次に私に嘘をついたら……本当にやっちゃうからね」
───
夏の刺すような日差しがアスファルトを焼いている。
駅前の喧騒を背にして私は一人で家への道を歩いていた。
思い出すのは先ほどのあの女の顔。
佐倉とか言ったかしら。
感情の読めない綺麗な、人形みたいな目で適当な嘘を並べ立てた泥棒猫。
湊くんが孤立する?
疲弊してすり減っていく?
あははっ、本当に馬鹿な人。
もしそんな未来が来るなら私が全部壊してあげるのに。
湊くんを傷つけるものは学校も人間関係も全部私が排除してあげる。
外の世界はやはり汚いものばかり。
湊くんの優しい初心を握ったあの女も。
怪しげな探し物に湊くんを巻き込むあの女も。
みんなみんな湊くんから大切なものを奪おうとする害虫でしかない。
この箱の中の部屋に私の愛しい人が待っている。
湊くんは優しいから色んなものを背負い込もうとする。
誰かのために傷ついて誰かのために無理をして。
そんなの絶対におかしい。
湊くんは私のためだけに笑って私のためだけに生きていればいいの。
私が毎日美味しいご飯を作ってあげる。
私が毎日可愛い服を着て抱きしめてあげる。
外の冷たい雨からも照りつける太陽からも私が全部守ってあげるから。
だから、もうどこにも行かないで。
私だけの湊くんでいて。
これは誰にも邪魔させない私だけの純愛。
他の誰が呪いと呼ぼうと構わない。
私はこの愛で湊くんを一生縛り付けてあげるんだから。
冷たい金属のドアノブに手をかけ私は世界で一番可愛い笑顔を作った。
「ただいま湊くん。ずっと一緒にいようね」
ガチャリと鍵を開け、私は私と湊くんだけの完璧な箱庭へと足を踏み入れた。
───
ガチャリ、と玄関の鍵が開く音がした。
俺はソファから飛び起きて、玄関へと向かう。あの一件以来、結愛の顔を見るのが正直少し怖かったが、逃げるわけにもいかない。
「おかえり、結愛」
ドアが開くと、そこには昨日と変わらない聖母のような微笑みを浮かべた結愛が立っていた。
「ただいま、湊くん。良い子で待ってた?」
結愛は靴を脱ぐなり、俺に駆け寄ってきてぎゅっと抱きついた。
その瞬間、俺は背筋にゾクッとした冷たいものを感じた。
(……あれ? なんか、結愛の後ろに黒いモヤモヤが見える気がする……? 気のせいだよな、)
真夏の暑さのせいか、あるいはエアコンが効きすぎているのか。俺は自分の感覚を疑うことにした。
「あ、あの、結愛、ちょっと苦しいんだけど……」
「ふふっ、ごめんね。湊くんが可愛すぎて、つい」
結愛は俺を解放すると、俺の頬を両手で挟んでじっと見つめてきた。その瞳は何かを観察しているような仄暗い光を宿している。
「湊くん、今日は外に出てないよね?」
「え? ああ、うん。ずっと家でゴロゴロしてた」
実際には美咲ちゃんのこととか佐倉のこととかで頭がパンクしそうで、外に出る気力なんてなかっただけだが。
俺がそう答えると、結愛は今日一番の満面の笑顔を浮かべた。
「良かった……! 本当に、良い子」
結愛は俺の頭を乱暴に撫で回すと、鼻歌を歌いながらキッチンへと向かった。
「湊くんのために、とっておきのご飯を作ってあげるからね!」
その背中からは、なぜか強い意志が感じられるような気がしたが、俺は「結愛が張り切ってるな、頑張れ」程度にしか思っていなかった。
「はい、湊くん。特製『湊くん大好きスタミナ丼』だよ!」
目の前に出されたのは、肉がこれでもかと盛られた凄まじいボリュームの丼だった。まだ昼過ぎだというのに、夜食のような重さだ。
「うわ、すごい量だな……ありがとう」
「残しちゃダメだよ? 湊くんはもっと体力をつけなきゃいけないんだから」
結愛は俺の隣に座ると、自分のスプーンで丼の具をすくい、俺の口元に差し出した。
「はい、あーん」
「えっ、あーん……?」
俺は思わず固まった。いくら義理の姉弟とはいえ、高校生の男子が姉に食べさせてもらうのはさすがにやはり恥ずかしい。
(でも、断ったらまた結愛の機嫌が悪くなるかもしれないし……この前キスまでしちゃったし……)
俺は葛藤の末、意を決して口を開けた。
「……あ、あーん」
パク、とスプーンを受け入れる。
「美味しい?」
結愛は期待に満ちた目で俺を見つめる。その顔がやけに近く感じた。
「……うん、すごく美味しいよ。結愛、やっぱり料理上手だな」
「本当!? 嬉しい! じゃあ、もっと食べてね。はい、あーん」
「いや、自分で食べるから……」
「ダメ。私が食べさせてあげるの。湊くんはお口を開けてるだけでいいからね」
結愛は俺の制止を無視して、次々とスプーンを俺の口に運んでくる。
(……なんだ、これ……。まあ、美味しいし、楽だからいいか)
俺は次第に恥ずかしさを忘れ、結愛にされるがままに丼を完食した。
(結愛、ちょっと過保護すぎる気もするけど。俺のこと、本当に心配してくれてるんだよな?)
俺は能天気にそう考えていた。
食後、ソファでくつろいでいると、結愛が俺の膝の上に頭を乗せて寝転がってきた。
「ねえ、湊くん」
結愛は俺を見上げながら、俺の手を自分の頬に寄せた。
「外は、もう危ないよ。悪い虫もいるし、事故もあるし。クーラーも効いてないし」
「悪い虫って……セミのことか?まぁたしかにうるさいって感じることあるけど、そこまで悪くないだろ。いなかったら夏じゃなくないか?」
俺の的外れな質問に、結愛は一瞬呆れたような顔をしたが、すぐに真剣な表情に戻った。
「そうじゃないよ。……凑くんを傷つける、悪い人たちのこと」
「心配してくれるのは嬉しいけど、ずっと家の中にいるわけにもいかないだろ? 学校もいつかは始まるし」
「学校なんて、行かなくていいよ。……凑くんは、ずっとここにいればいいの」
結愛は俺の手をギュッと握りしめた。
「私が湊くんの欲しいものは全部持ってきてあげる。私が凑くんの隣にずっといてあげる。だから、もう外の世界なんて見なくていいの」
結愛の声は甘く、そしてどこか呪術的な響きを帯びていた
俺は結愛の言葉を自分なりに解釈した。
「……てことは。夏休みが終わってもずっと家でゲームしてていいってことか? 課題もしなくていいんだな?」
「え……?」
結愛は俺の反応に呆然と目を見開いた。
「やったぜ。 結愛、最高だ! 俺、一生この家から出ないで、ゲーム実況者になるよ!」
「……え、あ、うん、そうね……。湊くんが幸せなら、それでいいけど。それでいいのだけれど……」
結愛は俺の想定外のポジティブさに、どう反応していいかわからないようだった。
俺は結愛の意図を完全に「甘やかし」として受け取り、精神的な檻の中を、快適なゲーミングルームへと作り変えてしまった。




