交差する視線
俺の首に回された結愛の腕は信じられないほど甘くそして力強かった。
「湊くんが美咲ちゃんと別れてくれたなんて夢みたい」
彼女の蕩けるような声が耳元で甘く響く。
俺の決死の言い訳は完全に彼女の歪んだ愛情を正当化する材料へと変換されてしまったらしい。
「でも……もう絶対に他の女の子はダメだからね?」
結愛は俺の胸に顔を埋めたままクスクスと笑う。
その笑い声に俺は背筋が凍る思いだったが今はただ彼女の機嫌を損ねないように頷くしかなかった。
「あぁ……わかってる」
「疲れたでしょ。お風呂沸かしてあるからゆっくり入って休んでね」
結愛は俺を解放すると、満面の笑みで俺の背中を押した。
俺は全身のドッと疲労を感じながら逃げるように洗面所へと向かった。
洗面所のドアが閉まる音を聞いて、結愛は暗い玄関に一人立ち尽くしていた。
彼女の顔から先ほどの甘い笑顔がスッと消え去る。
残されたのは氷のように冷たくそして底なしに暗い瞳だった。
「……佐倉」
結愛の薄い唇からその名前が呪いのように紡ぎ出される。
湊はただの雨宿りだと言った。
探し物を手伝っただけだと。
結愛は湊のその言葉を信じている。
湊が嘘をつく時の僅かな目の揺れや声の震えを結愛が見逃すはずがないからだ。
だが、湊の服に染み付いていたあの女の匂いだけは絶対に許せなかった。
「どこの馬の骨かわからない泥棒猫が……湊くんに近づくなんて」
結愛は自室に戻ると、机の上に置かれたノートパソコンを開いた。
液晶の冷たい光が彼女の狂気に満ちた顔を青白く照らし出す。
彼女は迷うことなく学校の裏掲示板や生徒のSNSアカウントの特定ツールを起動した。
湊の学年と『佐倉』という名字。
結愛の細い指がキーボードを恐ろしい速度で叩いていく。
「湊くんの周りの虫は私が全部駆除してあげるからね」
画面に次々と情報が羅列されていく。
学年トップレベルの成績。
他者を寄せ付けない冷たい態度。
そして過去の掲示板のログから結愛の目に一つの不穏な噂話が留まった。
数年前に起きたという生徒の行方不明事件とその噂。
結愛の口角がゆっくりと歪な弧を描いて吊り上がった。
「ふふっ……なるほどね。そういうこと」
───
うだるような熱気がコンクリートから立ち上る夏の駅前。
行き交う人々の波の中でその二人の少女の周りだけが奇妙に温度を下げていた。
「あなたが佐倉さんね」
結愛は完璧な愛想の良さを張り付けた笑顔で佐倉の前に立ち塞がった。
佐倉は足を止め見知らぬ美少女を冷徹な瞳で観察する。
「……どちら様でしょうか」
「私?私は湊くんの姉の結愛です」
結愛はふわりと長い髪を揺らし首を傾げた。
「いつも弟がお世話になってるみたいで挨拶しておこうと思って」
その言葉の裏に潜むねっとりとした独占欲と敵意。
佐倉の理知的な頭脳は瞬時に目の前の少女の異常性を弾き出していた。
佐倉は一切の表情を変えることなく淡々と口を開く。
「ああ湊くんの。義理の姉ですよね」
結愛の笑顔がほんの僅かにピクリと引きつった。
「……ええそうよ。家族になったの」
「そうですか。血の繋がりがないにしては随分と弟への執着が強いようですが」
「あら。姉弟なんだから心配するのは当然でしょ?」
結愛は一歩前に出て佐倉との距離を詰めた。
「湊くんが最近危ないことに首を突っ込んでるみたいだから」
「危ないこととは?」
「旧校舎の地下とか……ね」
結愛の言葉に佐倉の眼光が鋭さを増す。
湊が喋ったのか。
いや湊の性格なら絶対に他言しないはずだと佐倉は推測する。
「他人の探し物を手伝うのは優しい弟の長所だけど……」
結愛は顔を近づけ囁くように言葉を紡いだ。
「佐倉さんも気をつけた方がいいわ。教師が持つ秘密のこと探してるんでしょ?」
佐倉の呼吸がわずかに止まった。
「……どうしてそれを」
「ふふっ。秘密。でもあまり無茶をすると佐倉さんまで『消えちゃう』かもしれないわよ」
それは明確な警告であり脅迫だった。
湊の周りをうろつく泥棒猫に対する結愛なりの牽制。
しかし佐倉は動揺をすぐさま消し去り氷のように冷たい視線を結愛に突き返した。
「ご忠告痛み入ります。ですが私の目的は変わりません」
佐倉は結愛の横をすり抜けようと歩き出す。
「それと湊くんはあなたの所有物ではありません。過度な干渉は彼を壊すだけですよ」
すれ違いざまに放たれた佐倉の言葉。
結愛は振り返ることなくその場に立ち尽くしていた。
彼女の顔から笑顔が完全に抜け落ちドス黒い殺意だけが瞳に宿る。
「……絶対に許さない」
すれ違って駅の方へと歩き出した佐倉の背中を冷たい目で見送っていた結愛の耳に下品な男の声が飛び込んできた。
「ねえねえそこのお姉さん。今から暇?お茶でもしない?」
結愛がわずかに眉をひそめて振り返ると少し離れた場所で佐倉が見知らぬ男に絡まれていた。
金髪に日焼けした肌と派手な柄のシャツを着た粗暴そうな見た目の男だ。
佐倉は一切の表情を変えることなく男を無視して歩き続けようとしている。
しかし男はヘラヘラと笑いながら佐倉の進路を塞ぐように立ちふさがった。
「無視しないでよ。俺と遊ぼうよ。ねえってば」
男が佐倉の細い腕を強引に掴もうと手を伸ばす。
その光景を見た結愛の脳内で冷酷な計算式が瞬時に組み上がった。
あの泥棒猫は目障りだがここで恩を売っておけば後で都合よく使えるかもしれない。
湊くんの周りから完全に排除するための布石として『貸し』を作っておくのは悪くない判断だ。
結愛は再び完璧で愛らしい美少女の仮面を被り直すと軽やかな足取りで二人の元へと駆け寄った。
「あーっ!佐倉さんこんなところにいたの!」
結愛はわざとらしく高い声を上げると、男と佐倉の間に割って入り佐倉の腕を自分の胸にギュッと抱き寄せた。
「ごめんねお待たせ!探したんだよ」
突然の乱入者に男は舌打ちをして結愛を睨みつけた。
「あ?なんだお前。今この子と話して……」
「ごめんなさいお兄さん。この後私たち予定があるんです」
結愛はニコリと極上の微笑みを浮かべて男を見上げた。
しかしその瞳の奥には一切の光がなく漆黒の深淵のようなドス黒い殺意が渦巻いている。
「それにこの子……私の大切な『弟のお気に入り』だから。汚い手で触らないでもらえるかな」
声のトーンは甘く優しいままだったが込められた絶対的な零度の圧力に男はビクッと肩を震わせた。
本能的に目の前の少女の異常性を悟ったのだろう。
「ちっ……なんだよ気味の悪い女だな」
男は捨て台詞を吐いて逃げるように足早にその場から立ち去っていった。
男の背中が見えなくなると結愛は佐倉の腕をパッと離し面白くもなさそうに服の裾を払った。
「……何のつもりですか」
佐倉が警戒心を露わにして低い声で尋ねる。
「別に?ただの親切よ。これで私に一つ『貸し』ができたわね」
結愛は背を向けて歩き出しながら肩越しに氷のような笑みを投げかけた。
「せいぜい役に立ってもらうから覚悟しておいてね佐倉さん」




