マリオネット
重く気まずい沈黙が部屋に落ちていた。
先ほどの甘い熱は完全に冷え切り、エアコンの風だけが虚しく響いている。
ぐぅ。
情けない腹の音がなってしまった。
少しばかりの恥ずかしさを覚えた俺に対し、佐倉は何も言わずにキッチンへと向かい手慣れた様子でフライパンを取り出した。
やがてバターの溶ける甘い匂いとパンの焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。
「……どうぞ。簡単なものですが」
テーブルに置かれたのは綺麗なきつね色に焼かれたトーストと目玉焼きそして淹れたてのコーヒーだった。
もはや朝食。
「あ、ありがとう……」
俺たちは向かい合うのではなく、横に並んで座り、無言のままトーストをかじった。
サクッとした食感の後にバターの塩気が広がるが、今の俺には味がよくわからなかった。
「……さっきはごめんなさい。変な態度をとってしまって」
コーヒーのカップを見つめたまま佐倉がポツリと口を開いた。
「いや……気にしないでくれ。俺こそなんか悪かったし」
「勘違いしないでください。湊くんが悪いわけではありません」
彼女はトーストの切れ端を指先で弄りながら静かに言葉を紡ぎ始めた。
「旧校舎で見つけたあの指輪の話の続きです」
佐倉の声はいつもの理知的なトーンを取り戻していたが、どこかひどく冷たく乾いていた。
「あの指輪は先生が恋人と初めてのお給料で買ったものなんです。初任給で無理をして二人のために買った大切なペアリングの片割れ……」
俺はコーヒーを飲む手を止めた。
「彼女の想いがいっぱい詰まった大切な指輪。……でもあの人はそれを捨てたんです。誰も寄り付かないあの旧校舎の地下の金庫の奥深くに」
「捨てた……?」
「そうです。隠したというよりあれは明確な拒絶であり、廃棄です」
佐倉の横顔には怒りとも悲しみともつかない複雑な感情が張り付いていた。
彼女がなぜあんなに危険な旧校舎の地下へ固執していたのか。
その理由がようやく少しだけ輪郭を持ち始めた。
「私は……どうしてもあの指輪を取り戻さなければならなかったんです」
佐倉はギュッと膝の上で拳を握りしめた。
「あの人にこの指輪を突き返して彼女さんの本当の想いを正しく認識させたい。彼女がどれほどの覚悟であの指輪を贈ったのか……その想いをないがしろにした罪を分からせたいんです」
彼女の言葉には凍りつくような強い決意が込められていた。
ただのクラスメイトの男子である俺には踏み込むことのできない深くて暗い執念。
彼女が闇の中で探し求めていたのは愛しい誰かではなく捨てられた想いそのものだったのだ。
俺は残りの冷めたコーヒーを一気に飲み干した。
結愛の狂気から逃れるために巻き込まれた旧校舎の怪談。
しかしそこで見つけた銀の輪は俺の想像を絶するほど重くそして悲しい過去を秘めていた。
───
俺は佐倉のマンションを後にした。
真夏の夜の空気はむっとするような熱気を帯びていた。
ゲリラ豪雨が嘘のような夜空が広がっている。
だが俺の心は晴れるどころかさらに重く沈み込んでいた。
佐倉の抱える深すぎる執念と指輪の秘密。
そしてこれから待ち受けているであろう自分の家の現実。
足取りは重く、駅からの道のりが永遠のように感じられた。
やがて見慣れた自分の家にたどり着いた。
自分の家のドアの前に立つ。
深呼吸をして震える手でドアノブに手をかけた。
ガチャリという音とともに重い金属の扉を開ける。
「ただいま……」
返事がないことを祈りながら小さな声で呟いた。
しかしその祈りは最悪の形で裏切られることになった。
「おかえり、湊くん」
玄関の暗がり。
靴を脱ぐ、すぐ目の前に結愛が立っていた。
電気がついていない薄暗い廊下で彼女の瞳だけが異常な光を放っている。
「ゆ、結愛……」
俺の声は恐怖で完全に裏返ってしまった。
彼女はずっと、ここで俺の帰りを待っていたのだろうか。
「遅かったね。どこに行ってたの?」
声のトーンは信じられないほど優しく穏やかだった。
しかしそれが逆に底知れない恐怖を煽り立てる。
結愛は音もなく一歩前に出ると俺の顔のすぐ近くまで顔を近づけてきた。
そしてスッと鼻を鳴らす。
「……っ!」
俺は反射的に身を引こうとしたが、彼女の細い指が俺のTシャツの胸ぐらをガッチリと掴んだ。
「ねえ湊くん」
結愛の唇が俺の耳元で冷たく動く。
「この匂い……何?」
背筋に氷をねじ込まれたような悪寒が走った。
「……何って、雨に降られたんだ。こっちだって凄かっただろ?それより結愛こそ──」
「違うよ。湊くんの匂いじゃない」
彼女はさらに深く息を吸い込むように俺の首筋に顔を埋めた。
「知らない女の匂いがする。それと……すごく鼻につく柑橘系のルームフレグランスの匂い」
佐倉の部屋の香りだ。
そしてあんなにも密着して眠っていたせいで彼女のシャンプーの匂いまでが俺の服に染み付いてしまっていたのだ。
「湊くんはずっと私と一緒にいるって約束したよね?」
結愛がゆっくりと顔を上げる。
その瞳孔は完全に開ききり狂気のハイライトが宿っていた。
「どこの泥棒猫のところで、一体何をしていたの?」
逃げ場のない密室。
首根っこを掴まれたまま俺は義姉の底なしの狂気に完全に絡め取られている。
指の力がギリッと強くなる。
このまま誤魔化しても絶対に信じてもらえない。
俺は覚悟を決めて乾いた唇を舐めた。
「……話すよ。全部本当のことを話すから」
俺がそう言うと、結愛はピタリと動きを止めて俺の目を覗き込んできた。
「俺は……佐倉っていう子と一緒にいたんだ」
結愛の瞳の奥でドス黒い炎が揺らめくのを感じた。
「でも浮気とかそういうのじゃないんだ。俺は……美咲ちゃんと別れたから」
その言葉を聞いた瞬間結愛の目がわずかに見開かれた。
「別れた……嘘じゃなくて?」
「ああ。あの日結愛とキスした後……俺は美咲ちゃんに会いに行ったんだ」
俺は罪悪感で押し潰されそうになりながらも言葉を紡いだ。
「俺は美咲ちゃんに正直に話した。結愛とキスしたって全部伝えたんだ。それで俺たちは完全に終わったんだよ」
結愛は俺の胸ぐらを掴んだまま完全に硬直していた。
俺は彼女の反応が読めないままさらに言葉を続ける。
「美咲ちゃんと別れてから俺はずっと雨の中にいたんだ。土砂降りの中でどうすればいいかわからなくて」
俺は悲しみを紛らわせるように言葉を矢継ぎ早に紡ぐ。
「そこにたまたま通りかかった佐倉が傘を貸してくれたんだよ。それがきっかけで少し話すようになって……」
結愛の細い肩が微かに震え始めているのがわかった。
「学校で彼女の探し物を手伝ってたんだ。旧校舎の地下で……だから服に埃の匂いもついてるだろ?」
俺は必死に昨日の出来事を説明した。
「雨がひどくなって帰れなくなったから、彼女の部屋で雨宿りさせてもらっただけなんだ。本当にそれ以外は何もない」
すべてを話し終えた暗い玄関には重い沈黙が降りていた。
俺の心臓は破裂しそうなほどの音を立てている。
結愛はうつむいたまましばらく身動き一つしなかった。
やがて彼女の喉の奥からくぐもったような声が漏れ始めた。
「……ふふっ」
それは怒りではなく明らかな笑い声だった。
結愛がゆっくりと顔を上げる。
その表情からは先ほどまでの殺意に満ちたオーラは完全に消え去っていた。
代わりにそこにあったのは恍惚とした信じられないほど甘く蕩けるような笑顔だった。
「湊くん……その様子からすると、本当にあの泥棒猫と別れてくれたんだね」
彼女は俺の胸ぐらを掴んでいた手をそっと開き今度は愛おしむように俺の首に腕を回してきた。
「嬉しい……すごく嬉しいよ、湊くん」
俺の告白は彼女の狂気を静めるどころか、全く違う方向へと加速させてしまったらしい。
彼女の頭の中では俺が彼女を選んで恋人を捨てたという歪んだ純愛のストーリーが完成してしまっていたのだった。




