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落胆

必修落単したので。

 激しい雨音だけが響く暗闇の中で俺と佐倉の指はしっかりと絡み合っていた。

 スプラッタ映画の恐怖から逃れるように握りしめたはずの手はいつの間にか別の甘い熱を帯び始めている。


「……いつまでこうしているつもりですか」


 暗闇の中から佐倉の平坦だがどこか柔らかな声が聞こえた。


「あ、ごめん……でも本当に真っ暗で何も見えないし」


「スマホのライトを点けます。少し眩しいですよ」


 カチャッという微かな衣擦れの音がした直後だった。

 パッと鋭い白い光が二人の間の空間を切り裂いた。

 佐倉が手探りでスマホを取り出し、ライト機能をオンにしたのだ。

 突然の光に俺は思わず目を細めた。


 そして目が光に慣れた次の瞬間。

 俺の思考回路は完全にショートしてしまった。


「っ……!」


 スマホのライトに下から照らし出された佐倉の顔が鼻先が触れそうなほどのゼロ距離にあったのだ。

 暗闇の中で雷の恐怖に駆られて手を握りしめた時にお互い無意識のうちに身を極限まで寄せ合ってしまっていたらしい。


 長いまつ毛が作り出す影や透き通るような白い肌のきめまでがはっきりと見える。

 少しだけ驚いたように見開かれた彼女の理知的な瞳が俺の顔を至近距離で真っ直ぐに見つめ返していた。


「湊くん、近いです」


 佐倉の桜色の唇から紡がれた吐息が直接俺の頬をくすぐる。

 俺の顔は自分でもはっきりとわかるほど一瞬にして沸騰し、耳の先まで真っ赤に染まり上がった。


 心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく早鐘を打ち鳴らしている。

 すぐに手を離して距離を取らなければいけないのにあまりの恥ずかしさと近すぎる彼女の美しさに縛り付けられて、指一本動かすことができない。


 窓を叩きつけるゲリラ豪雨の音すら遠のいていくような究極の密室状態。

 俺は佐倉と指を深く絡ませたまま限界突破した顔の熱さとともに完全にフリーズしてしまった。


 そんな至近距離で見つめ合う俺たちの間に不意に小さな警告音が鳴った。

 ピロンという無機質な音と共に佐倉のスマホのライトがプツンと途切れる。


「あ……」


 バッテリーが切れたのか、急造の光源はあっけなくその役目を終えてしまった。

 部屋は再び完全な暗闇に飲み込まれる。

 眩しい光から急激に暗転したせいで先ほどよりもさらに何も見えなくなった。


 俺は心臓をバクバクさせながら佐倉が離れていくのを待った。

 明るくなって冷静さを取り戻した彼女がいつものように冷たい声で距離を取るはずだ。

 しかし予想に反して俺の手を握る彼女の指先の力は全く緩まなかった。

 それどころか衣擦れの音が微かに響き、俺の腕に柔らかな重みがのしかかってきた。


「えっ……佐倉?」


 彼女が俺の方へとさらに身を寄せてきたのだ。

 暗闇の中で彼女の頭が俺の肩にこつんと乗せられる。

 ルームフレグランスの上品な香りと彼女の髪から漂う甘いシャンプーの匂いが俺の鼻腔を強くくすぐった。


「……暗いのは、あまり好きではありません」


 耳元で囁かれたその声はいつもの理知的な響きを完全に失っていた。

 どこか幼く甘えるような震える声色だ。


「だから……もう少しだけ、このままで」


 彼女の吐息が俺の首筋に直接触れ背筋にゾクゾクとするような甘い痺れが走る。

 絡められた指先からは彼女の少しひんやりとした体温が伝わってくるのに触れ合っている肩や腕は信じられないほど熱かった。


 あの冷静沈着な優等生が暗闇に乗じて俺にすがりついている。

 その事実が俺の理性を完全に吹き飛ばしそうになっていた。


 外のゲリラ豪雨が俺たちの密着を世界から隠すように激しく窓を叩き続けている。

 俺は身動き一つとれないまま腕の中にある彼女の柔らかな重みと甘い香りにただ静かに溺れていくしかない。


 激しい雨音と雷鳴の記憶はいつの間にか遠ざかっていた。

 意識が深い底からゆっくりと浮上してくるのを感じる。

 閉じたまぶたの裏に夜の闇が差し込んできた。

 俺は微かに顔をしかめてゆっくりと目を開けた。

 視界に飛び込んできたのは見慣れない白い天井だった。


 窓の向こうからは僅かに降っている雨の音が聞こえる。

 どうやらあのひどいゲリラ豪雨は鳴りをひそめたらしい。

 状況を把握しようと身をよじった瞬間胸のあたりにずっしりとした重みを感じた。


「……え?」


 寝ぼけた頭が一瞬で覚醒した。

 俺はソファに寄りかかるようにして座ったまま眠っていた。

 そして俺の胸の中には信じられないものがすっぽりと収まっていた。

 あの常に冷静沈着で理知的な優等生である佐倉が俺に抱きつくような体勢でスヤスヤと眠っているのだ。


 彼女の柔らかい頬が俺の胸板にぴたりと押し付けられている。

 規則正しい寝息が俺のシャツ越しに温かく伝わってきた。


「うわっ……マジか」


 声を出さないように必死に口元を押さえる。

 記憶が嵐のように蘇ってきた。

 停電の暗闇の中で彼女がすがりついてきてそのまま互いの体温に安心して二人とも眠りに落ちてしまったのだ。


 俺の腕は彼女の細い背中をしっかりと抱きしめる形になっていた。

 至近距離で見る彼女の寝顔は信じられないほど無防備で幼い。

 長いまつ毛が白い肌に淡い影を落とし、ほんの少しだけ開いた桜色の唇から甘い吐息が漏れている。


 普段の仮面が完全に剥がれ落ちた、年相応の女の子の顔だった。

 俺の心臓が昨日のホラー映画の時よりも遥かに大きな音を立てて暴れ出しそうになる。


 この激しい鼓動が伝わって彼女が起きてしまったらどうなるのだろう。

 あの冷たい瞳で軽蔑され社会的に抹殺されるかもしれない。

 しかし俺のシャツの裾をギュッと握りしめている彼女の小さな手を見るとどうしても突き放すことなどできなかった。


 俺の心臓の音がうるさかったのだろうか。

 胸の中で眠っていた佐倉がモゾモゾと小さく身じろぎをした。


「ん……」


 微かに開いた桜色の唇から甘い寝息のような声が漏れる。

 長いまつ毛が震えゆっくりとその瞳が開かれた。

 朝の光を受けて薄っすらと潤んだ理知的な瞳が至近距離で俺を見上げる。


 終わった。


 状況を把握した彼女から冷酷なビンタが飛んでくるか軽蔑の言葉を浴びせられるか。

 俺は全身の筋肉を硬直させて最悪の事態に備えた。

 しかし佐倉の反応は俺の予想を完全に裏切るものだった。


「……うーん」


 寝起きのせいでひどく掠れた甘い声。

 彼女は俺から離れるどころかまるで安心できる毛布を求める子供のようにさらに俺の胸板へと顔を擦り付けてきたのだ。


「……温かいです」


 俺のTシャツの裾を握りしめていた彼女の手の力が少しだけ強くなる。

 柔らかい頬が俺の胸にピタリと押し当てられ彼女の体温が直に伝わってくる。


「さ、佐倉……?」


 俺が戸惑いながら声をかけると彼女は目を閉じたまま小さく頷いた。


「もう少しだけ……このままで」


 普段の冷徹な優等生の面影はどこにもない。

 完全に寝ぼけていて自分が誰に抱きついているのかすらまともに認識していないのかもしれない。

 あるいは昨夜の暗闇の恐怖がまだ心のどこかに残っていて温もりを求めているのか。

 理由はどうあれこの状況は俺にとって完全に致死量の甘さだった。


 腕の中にある圧倒的な柔らかさとシャンプーの上品な匂い。

 そして俺を頼り切っている無防備すぎる態度。

 限界を突破した心臓が今度こそ本当に肋骨を突き破って飛び出してしまいそうだ。

 俺は呼吸すらまともにできずただ彼女の華奢な背中に回した腕をどうすればいいのかわからずに宙を彷徨わせるしかなかった。


 ふと胸の中でモゾモゾと動いていた佐倉の動きがピタリと止まった。

 俺のTシャツを掴んでいた指先の力がふっと緩む。

 ゆっくりと瞬きを繰り返していた彼女の瞳から寝起きのまどろみが消え去り完全な理知の光が戻ってきたのがわかった。


 ついに頭が覚醒したのだ。

 俺は思わず目をギュッと瞑った。


「な、何してるんですか!」と突き飛ばされるか。

 あるいは冷たい声で「セクハラで訴えますよ」と社会的に抹殺されるか。

 どちらにせよ無傷で済むとは思えなかった。


 しかし予想に反して俺に衝撃が走ることはなかった。

 佐倉は俺の胸からゆっくりと顔を離し、体を起こした。

 そして至近距離で俺の顔をじっと見つめるとふうっと深く息を吐き出した。


 その表情には恥じらいも怒りもなかった。

 ただどこかひどくガッカリしたような寂しげな色が浮かんでいたのだ。


「……なんだ。湊くんだったんですね」


 ポツリとこぼれ落ちたその声はひどく冷たくそして切なかった。


「え……?」


 俺が戸惑いの声を上げると、佐倉はソファから立ち上がり乱れた服の裾を直した。


「……すみません。どうやら寝ぼけていたようです」


 彼女は俺から視線を外し窓の外を見つめた。

 その横顔を見て俺はようやく気がついた。

 彼女は俺に抱きついていたわけじゃない。

 俺の体温の中にずっと探し求めている『誰か』の温もりを錯覚していただけなのだ。


 おそらくは旧校舎の地下の指輪に繋がるあの行方不明の誰かの幻影。

 夢の中でようやく会えた愛しい存在が目を覚ましたらただの同じ学校の男子だった。

 そりゃあガッカリもするだろう。


「いや……俺の方こそごめん」


 俺が何を謝っているのか自分でもわからなかったがそう言わずにはいられなかった。


 甘すぎる致死量の時間はあっけなく終わりを告げた。

 そこには残酷な現実と彼女が抱える深すぎる喪失感だけが残されていた。

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