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重なる指

 先ほどの冷ややかな視線で凍りついた空気を払拭するように俺は黙々と段ボールを解体し始めた。


 佐倉も何も言わず説明書を片手に金網のパーツを並べていく。

 エアコンの効いた静かな部屋に金属が擦れるカチャカチャという音だけが響いていた。


「ここのジョイントは私が押さえます。湊くんは反対側のフックを引っ掛けてください」


 佐倉の事務的な指示に従い、俺は巨大な金網のパネルを持ち上げた。


「よし。じゃあそっちの留め具を下ろすぞ」


 互いに息を合わせて作業を進めていくと、少しずつ元の気まずさは薄れていくような気がした。


 ケージの骨組みが完成し、最後に天井部分の網を被せて固定する工程に入った時だ。


「ここの噛み合わせが少し固いですね」


 佐倉が背伸びをするようにして天井の留め具に手を伸ばした。

 俺も反対側から力を入れて押し込もうと同時に手を伸ばす。

 カチャッという音と共に留め具がはまったその瞬間だった。


「あっ」


 俺の右手が金網を掴んでいた佐倉の白く細い手の上にピタリと重なってしまったのだ。


 ひんやりとした彼女の肌の感触が直接俺の手のひらに伝わってくる。


「あ、ごめん!」


 俺は慌てて手を引っ込めようとした。

 しかし、佐倉の手は留め具を強く握りしめたままで俺の指は彼女の指に軽く絡まるような形になってしまっていた。


 至近距離で彼女の顔を見る。

 綺麗な横顔がすぐ目の前にあった。


「湊くん、手が邪魔です」


 佐倉は俺の方を見ようともせず、いつも通りの平坦な声で言い放った。


「ごめん。すぐ退けるから」


 俺が慌てて指を解いて離れると、彼女は静かにケージから手を下ろした。


 だがその横顔をよく見ると透き通るような白い頬にほんのりと微かな朱が差しているのがわかった。

 言葉は冷たかったがその反応は決して嫌がっているようには見えない。


 雪乃宮さんをからかっていた時の余裕たっぷりな態度とは違う年相応の女の子らしい一面に俺の心臓がトクンと跳ねた。


 ケージの扉を開けると、デグーは真新しい住処に興味津々で飛び込んでいった。


 チチチッと嬉しそうな鳴き声が静かな部屋に響く。


「無事に終わりましたね。手伝ってくれてありがとうございます」


 佐倉が微かに口角を上げて冷たい麦茶の入ったグラスを差し出してきた。

 俺がグラスを受け取ろうとしたその瞬間だった。


 ゴロゴロ……ッ!


 突然窓の外から地響きのような低い雷鳴が轟いた。

 さっきまで真夏の強い太陽が照りつけていたはずの空が嘘のように真っ黒な雲に覆い尽くされている。


 パラパラという音は一瞬にしてバチバチと窓ガラスを叩き割るような激しい音へと変わった。

 絵に描いたようなゲリラ豪雨だった。


「うわっ……すごい雨だな」


 俺は窓際に駆け寄り、白く霞む外の景色を見下ろした。

 道路は瞬く間に川のようになり歩いている人影は全くない。

 とてもじゃないが駅まで歩けるような状況ではなかった。


「参ったな……これじゃ帰れない」


 俺が困り果てて呟くと佐倉はグラスに口をつけながら淡々と言った。


「ネットによるとこの雨はあと数時間は降り続くようです。強行突破は避けるべきでしょう」


「でもずっとここにいるわけにも……」


「雨が止むまでここにいればいいです」


 佐倉は当たり前のようにそう言い放った。


「え?」


「別に追い出したりはしません。それに一人でこの豪雨の音を聞いているのも少し……退屈ですから」


 最後の方は少しだけ声のトーンが落ちて目を逸らされた。

 その不器用な誘い方が妙に可愛らしくて俺の胸の奥がチクリと鳴る。


「じゃあ……お言葉に甘えて」


 俺がソファの端に腰を下ろすと、佐倉もグラスを持って俺の隣に座った。


 普段の学校では絶対にあり得ない距離感だ。

 彼女の肩が触れそうなほど近くからあのルームフレグランスの上品な香りと彼女自身のシャンプーの甘い匂いが混ざって漂ってくる。

 外の世界は激しい雨音によって完全に遮断されていた。


 誰も来ない二人きりの密室。


 まるで秘密のお家デートのようなこの甘すぎる状況に俺はグラスの麦茶を一気に飲み干して必死に激しい動悸を誤魔化すしかなかない。


 窓ガラスを叩きつける雨音は一向に弱まる気配がない。

 静かすぎる部屋の中でその音だけがやけに大きく響いていた。


「少し雨音がうるさいですね。何か映画でも見ましょうか」


 佐倉がテレビのリモコンを手に取り、動画配信サービスの画面を立ち上げた。

 画面には様々なジャンルのサムネイルがずらりと並んでいる。


「湊くんは何か希望がありますか」


「いや特には。佐倉の好きなやつでいいよ」


「そうですか。では話題になっていたこの恋愛映画はどうでしょう」


 佐倉がリモコンで選択したのは数ヶ月前に大ヒットしたという恋愛ものの邦画だった。

 画面に映し出されたのは制服姿の男女が夕暮れの教室で見つめ合う、甘く切ないキービジュアルだ。

 それを見た瞬間、俺の胸の奥を冷たい針のようなものがチクリと刺した。


 脳裏にフラッシュバックしたのは美咲ちゃんの顔だった。

 俺に向けてくれていた無邪気な笑顔。

 そして俺のせいで深く傷つき、絶望に染まってしまったあの日の泣き顔。

 恋愛映画の甘いストーリーは今の俺にとって残酷な毒でしかなかった。


 人の心を弄び取り返しのつかない罪を犯した俺に純粋な恋愛の行く末を見る資格なんてあるはずがない。


「……ごめん。それ、ちょっとやめといてもらっていいか」


 俺の声は自分でも驚くほど低く掠れていた。


「……どうしてですか。こういうジャンルは苦手ですか」


「苦手というか……今はちょっとそういうのを見れる気分じゃなくて」


 必死に平静を装って答えたが、俺の指先は微かに震えていた。

 佐倉は何も言わず、ただ俺の顔をじっと見つめている。

 その理知的な瞳は俺が抱えている罪悪感や痛みをすべて見透かしているようだった。


「……わかりました。では別のアクション映画にでもしましょう」


 彼女はそれ以上深くは追及せず、淡々とリモコンを操作して画面を切り替えた。

 派手な爆発音と銃撃戦が始まり、部屋の空気が少しだけ軽くなる。


「ありがとう」


 俺が小さく呟くと佐倉は画面から目を離さないまま静かに頷いた。

 激しい雨音とアクション映画の騒音に包まれながら俺は消えることのない美咲ちゃんへの罪悪感を一人静かに噛み締めていた


 これで美咲ちゃんのことを思い出さずに済む。

 しかしその安堵は開始からわずか十分で木端微塵に打ち砕かれることとなった。

 画面の中で銃を撃っていた男が突如として背後からチェーンソーで真っ二つに切り裂かれたのだ。


「は……?」


 画面いっぱいに鮮血が飛び散り、生々しい悲鳴が部屋中に響き渡る。

 アクション映画だと思っていたそれはB級の過激なスプラッタ映画だったのだ。


 俺は悲鳴を上げそうになるのを必死に堪え、咄嗟に両手で自分の目を覆った。

 ネズミもダメだがこういうグロテスクな映像も俺は全く免疫がない。


「ちょっ佐倉!これアクション映画じゃないだろ!」


「アクション要素も含まれていますから嘘は言っていませんよ」


 横を見ると佐倉は涼しい顔で画面を見つめながら淡々と答えた。

 俺は目を覆ったまま、早く終わってくれと心の中で祈った。

 しかし見えない分だけ悲鳴や肉を切り裂くような嫌な音が鮮明に耳に届いて想像力を掻き立ててくる。


 一体今どんな恐ろしいことが起きているのだろうか。


 恐怖と同時に湧き上がってくる抗いがたい好奇心。

 俺は恐る恐る指の隙間を少しだけ開いて画面を覗き込んでしまった。

 ちょうど画面では犠牲者がさらに悲惨な目に遭っている最中だった。


「うわあっ!」


 俺は瞬時に指を閉じて自分の愚かな行動を激しく後悔した。

 見なければよかった。

 しかし数分経つとまた気になって指の隙間から見てしまい、その度に身の毛がよだつような映像に後悔する。


 開いては後悔し閉じてはまた開く。


 俺はソファの上で一人でそんな滑稽な一人芝居を繰り返していた。


「湊くん。そんなに気になるなら手を開いてしっかり見ればいいのではないでしょうか」


「見たくないけど気になっちゃうんだよ!」


「馬鹿な行動ですね。まるで指の隙間から世界を覗くことで被害者意識を軽減しようとしているようです」


 佐倉のツッコミが恐怖を少しだけ和らげてくれる。

 俺が指の隙間から横目で彼女を見ると、その口元にはほんの少しだけ意地悪な笑みが浮かんでいた。


 この優等生は絶対にわざとこの映画を選んだに違いない。


 画面の中ではいよいよ殺人鬼がチェーンソーを振りかざし、最後の惨劇が始まろうとしていた。

 俺は指の隙間から目を逸らすこともできず、ただ恐怖に顔を引きつらせていた。

 その時だった。


 ピカッ!


 窓の外が白昼のように一瞬だけ激しく閃光に包まれた。


 ドッシャアアアアン!!


 直後腹の底に響くような凄まじい轟音がマンション全体を揺らした。

 きっと近くに巨大な雷が落ちたのだ。


 「うわあっ!?」


 俺がソファの上で跳ね上がった瞬間。

 プツンという音と共にテレビの画面が消え、エアコンの稼働音も止まった。


 部屋の中は完全な暗闇と静寂に包み込まれた。

 マンション全体が停電したらしい。

 ただでさえ雷の音に驚いていたところにスプラッタ映画の直後のこの暗闇だ。


 脳裏には先ほどのグロテスクで血みどろの映像が鮮明に焼き付いている。


 「さ、佐倉っ!?」


 俺はパニックに陥り、無意識のうちに隣に座っているはずの彼女の姿を探して手を伸ばした。

 暗闇の中を泳いだ俺の手はひんやりとした柔らかな何かに触れた。


「っ!」


 俺は恐怖のあまりその細い手を両手でギュッと強く握りしめてしまった。

 まるで命綱にすがるような必死さだった。


 「……湊くん」


 暗闇の中から佐倉の静かな声が降ってきた。


「力、入りすぎです。痛いのですが」


 平坦な声だがどこか微かに震えているようにも聞こえる。

 俺は自分が彼女の手をこれ以上ないほど強く握りしめていることにようやく気がついた。


「ご、ごめん!でも暗くて……!」


「落ち着いてください。ただの停電です。殺人鬼が現れたわけではありませんよ」


 佐倉の呆れたような声に俺は少しだけ冷静さを取り戻した。

 しかし握りしめた手は恐怖と少しの別の感情から離すことができない。


 「……あのー、その、もう少しだけこのままでいいですか?」


 俺が情けない声で頼み込むと暗闇の中で佐倉が小さくため息をつく気配がした。


「おかしな人ですね。……仕方ありません」


 彼女は俺の手を振り払うことはせず、むしろそのひんやりとした指先を俺の指の間に滑り込ませてきた。

 しっかりと絡み合う指と指。

 外の激しい雨音だけが響く暗闇の部屋で俺の心臓はホラー映画の恐怖とは全く違う理由で激しく早鐘を打ち始めていた

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