冷静を取り戻した女王
「待てよ。じゃあその相手の彼女ってのは誰なんだよ」
俺は指輪をしまった佐倉に向かってさらに一歩踏み込んだ。
「あんたがそこまで執着する理由が何かあるはずだろ」
佐倉が何かを答えようと薄い唇を開きかけた、その瞬間だった。
ガララッ!
勢いよく教室の後ろのドアが開け放たれた。
俺と佐倉は同時にそちらへ視線を向ける。
そこには先ほど真っ赤な顔をして逃げ出していったはずの雪乃宮さんが立っていた。
「まだいたの」
彼女はひどく冷たい声でそう言い放つと、スタスタと迷いのない足取りで教室に入ってくる。
「あら雪ちゃん。私がいなくて寂しくて戻ってきちゃったの?」
佐倉は先ほどのシリアスな空気を一瞬で消し去り、再び悪戯っぽい笑みを浮かべた。
そしてすれ違いざまに雪乃宮さんの肩へ甘く寄り添おうと手を伸ばす。
だが今度の雪乃宮さんは先ほどのようにたじろぐことはなかった。
「触らないで。忘れ物を取りに来ただけよ」
彼女は佐倉の腕を冷たく払いのけると自分の席の机の中から忘れていたスマートフォンのケーブルを引っ張り出した。
「つれないわね。さっきはあんなに可愛く顔を赤くして震えていたのに」
佐倉がさらに蠱惑的な声で耳元に囁きかける。
しかし雪乃宮さんは完全に『氷の女王』の仮面を被り直していた。
「からかっても無駄よ、佐倉さん。さっきは少し暑さで頭がどうかしていただけだから」
彼女は涼しい顔でそう言い切ると、佐倉の誘惑をあっさりと受け流した。
「あなたたちこそいつまで教室で無駄話をしているつもり?早く帰らないと戸締まりされるわよ」
「いや、まだ正午過ぎだし戸締りは、」
「ん?」
雪乃宮さんは俺たちを一瞥すると、今度こそ本当に教室を出て行った。
後に残されたのは見事に空振りに終わった佐倉と完全に質問のタイミングを失った俺だけだ。
「……ふふっ。さすがに二度は引っかかってくれないみたいね」
佐倉は少しだけ残念そうに肩をすくめてリュックを背負い直した。
「さあ湊くん。今度こそ本当に帰りましょうか」
彼女の表情からはすっかり先ほどの重い空気は消え去っている。
うだるような夏の暑さから逃れるように俺たちは駅前の大型ホームセンターへと逃げ込んだ。
「て、天国だ!」
ガンガンに冷えたエアコンの風が火照った体を急速に冷やしていく。
佐倉の背中のリュックからは相変わらずチチチッという小さな鳴き声が微かに漏れていた。
俺たちは迷うことなく奥のペット用品コーナーへと向かった。
「湊くん。このケージはどうですか」
小動物用の巨大なケージを前にして佐倉が真剣な顔で振り返る。
「デグーは上下運動を好むので高さのあるものが理想的です。これなら十分な広さがあるかと」
「まあいいんじゃないか。でもあんたの部屋にそんなデカいの一人で組み立てられるのか?」
「構造は単純です。それに力仕事が必要なら湊くんが手伝ってくれるのでしょう?」
佐倉は小首を傾げて当然のようにそう言った。
俺は思わず言葉に詰まる。
「……なんで俺が手伝う前提なんだよ」
「あら冷たいですね。一緒に命の危機を乗り越えた仲ではありませんか」
彼女はふわりと微笑むと、今度は餌のコーナーへと歩き出した。
「チモシーは一番刈りの硬いものが歯の伸びすぎを防ぐのに良いそうです。あともう少し栄養価の高いペレットも必要ですね」
買い物カゴを片手に商品を吟味するその横顔は普段の冷徹な優等生とは全く違う。
どこか家庭的で柔らかな空気を纏っていた。
「湊くん。このおやつ用の乾燥リンゴも買っておきましょうか。あの子好きかしら」
「俺に聞かれてもわかんないよ。でも……まあ喜ぶだろ」
「ふふっ。そうですね。じゃあこれもカゴに入れておいてください」
俺がカゴを受け取り、佐倉が商品を選んで入れていく。
まるで新居の家具や今日の晩ご飯のおかずを二人で買い出しに来ている新婚夫婦のような甘い錯覚に陥りそうになる。
さっきまでの旧校舎の埃っぽい怪談や雪乃宮さんとのバチバチとした修羅場が嘘のように穏やかな時間が流れていた。
会計を済ませると、俺の両手には巨大なケージの入った段ボールと飼育用品の詰まった重い袋がぶら下がっていた。
「それじゃあ俺はこっちだから」
俺は荷物を佐倉に渡し、駅の方へ向かおうとした。
結愛が待つ家に帰るのはひどく気が重いが、いつまでも逃げ回っているわけにはいかない。
しかし一歩踏み出した俺のTシャツの裾が背後からギュッと強く引っ張られた。
「えっ?」
振り返ると佐倉が片手で俺の服を掴んだまま無表情で立っている。
「どこへ行くつもりですか湊くん」
「どこって……家に帰るんだよ」
「変なことを言わないでください。こんな重くて巨大なケージをか弱い女子高生一人で家まで運んで、さらには組み立てろと言うのですか」
か弱いという言葉と旧校舎でバールをフルスイングしていた彼女の姿がどうにも俺の中で結びつかない。
「いやでも……」
「言い訳は不要です。あなたが手伝うのは確定事項ですから」
佐倉は俺の裾を掴んだまま迷いなく歩き出した。
有無を言わさぬその強引な力に引きずられるようにして俺は彼女の歩調に合わせざるを得ない。
「ちょっ、ちょっと待てって!家に行くなんて聞いてないぞ!」
「今言いました。私の家はここから歩いて十分ほどのマンションです」
振り返りもせず淡々と告げるその背中に俺は完全に逆らう気を削がれてしまった。
雪乃宮さんを甘く翻弄していたあの小悪魔的な態度はどこへやら。
今の彼女は完全に絶対君主の優等生モードだ。
俺は結愛の待つ家を回避できたことへの安堵と、見知らぬ女子高生の部屋に上がり込むことへの強烈な緊張感を感じている。
オートロックのマンションを抜け、佐倉の案内に従って部屋のドアをくぐる。
「適当に座って待っていてください。すぐにお茶を淹れますから」
彼女に促されるままリビングへと足を踏み入れた俺は少しだけ拍子抜けしてしまった。
バールを振り回し、旧校舎を探索するような彼女のことだ。
足の踏み場もないほど散らかっているか、あるいは壁一面に怪しげな事件の資料がびっしりと貼られているような異様な光景を想像していた。
しかし実際の佐倉の部屋は優等生という言葉をそのまま形にしたような空間だった。
無駄なものが一切なくチリ一つ落ちていないほど綺麗に整頓されている。
家具は白を基調としたシンプルなもので統一されており、窓からは明るい日差しが差し込んでいた。
「すげえ綺麗な部屋だな……」
俺は感心しながら部屋の中を見渡す。
その時、飾り棚の上に置かれているお洒落なガラス瓶のルームフレグランスが目に留まった。
数本のリードスティックが挿してあり、柑橘系と微かなフローラルが混ざったような上品で落ち着く香りを漂わせている。
何の気なしに俺はその綺麗なガラス瓶のラベルに手を伸ばそうとした。
「……湊くん?」
背後から背筋が凍るような静かな声が響いた。
振り返るとキッチンに立っていたはずの佐倉が冷ややかな瞳で俺の伸ばした手を見つめている。
一切の感情を感じさせないその氷のような表情に、俺はビクッと肩を震わせて空中で手を止めた。
「あ、いや……すごくいい匂いだなと思って」
「他人の部屋の物に許可なく触れるのはあまり褒められた行為ではありませんね」
声のトーンは全く荒げられていない。
しかしその奥に潜む静かな怒りというか、明確な『拒絶』の圧力が俺の心臓をギュッと締め付けた。
「ご、ごめん……」
俺が慌てて手を引っ込めると、佐倉はふうっと小さく息を吐き出し、再びいつもの優等生の顔に戻った。
「冷たい麦茶です。さあ早くそのケージを組み立ててしまいましょう」
彼女は何もなかったようにテーブルにグラスを置く。
しかし俺の脳裏には先ほどの彼女の鋭い視線が焼き付いて離れなかった。
ただのルームフレグランスのはずなのに、彼女のあの過剰な反応は一体何だったのか。
あの瓶にも旧校舎の地下で見つけた指輪のように、何か絶対に触れられたくない秘密や執着が隠されているのだろうか。




