名も無き教師
佐倉の白く細い指先は雪乃宮さんの熱を帯びた頬を愛おしむように撫でた後ゆっくりとその華奢な首筋へと滑り降りていった。
「んっ……」
雪乃宮さんの口から小さく甘い吐息が漏れる。
「佐倉さん……もうやめ、て……」
言葉ではそう拒絶しているものの彼女の体は佐倉から逃げようとはせず、むしろその温もりにすり寄るように僅かに前傾していた。
普段の氷のように冷たく誰をも寄せ付けないあのオーラは完全に溶けきっている。
佐倉は雪乃宮さんの逃げ場を完全に塞ぐように机の縁に手をつきさらに自分の顔を近づけた。
二人の吐息が混ざり合うほどの至近距離だ。
「やめてほしいの?でも、雪ちゃんの体は正直よ」
佐倉の蠱惑的な囁きが夏の教室にひどく甘く響き渡る。
「こんなに顔を赤くして震えているじゃない。強がらなくていいのよ」
「ちが……これは、暑いから……」
「エアコンは効いているわよ。雪ちゃんが熱いのは私のせいでしょう?」
雪乃宮さんの潤んだ瞳が佐倉の端正な顔立ちを縋るように見上げている。
佐倉は雪乃宮さんの震える唇に自分の親指の腹をそっと押し当てた。
ビクッと雪乃宮さんの肩が跳ねるが、彼女は目を伏せてされるがままになっている。
「可愛いわ雪ちゃん。ずっとこうして私に甘えていればいいのよ」
窓から差し込む真夏の強い光が二人の少女の影を長く床に伸ばし一つの塊へと融け合わせていく。
教室の空気は砂糖を煮詰めたように甘く重たくなっていた。
「あー……」
俺は教室の隅で完全に透明な背景の一部と化していた。
俺という存在をダシにして始まったはずの女同士の戦いはいつの間にか俺を完全に置き去りにして極上の空間へと昇華されていた。
口を挟むタイミングなんてあるわけがない。
咳払い一つするのすらこの神聖で甘すぎる空間を汚してしまうようで激しく躊躇われる。
俺は自分の存在意義を自問自答しながらただひたすらに二人の美少女が織りなす甘々ないちゃつきを特等席で観測し続けるしかない。
しかし甘すぎる空間に耐えきれなくなった俺はついに限界を迎えた。
透明な観測者でいるのもここまでだ。
俺はわざとらしく大きく息を吸い込み、静まり返った教室に響き渡るような特大の咳払いをした。
「んんっ!……ゴホンッ!!」
その無粋な音は砂糖菓子のように甘く煮詰まっていた空間を粉々に打ち砕くには十分すぎるほどの威力を持っていた。
ビクッ!と雪乃宮さんの肩が大きく跳ねる。
佐倉の蠱惑的な魔法から強制的に引き剥がされたように彼女はハッと息を呑んで我に返った。
自分の今の状況。
佐倉に至近距離で見つめられ頬を撫でられあまつさえ自分からその温もりにすり寄って甘えていたという事実。
それが一気に脳内で処理されたのだろう。
雪乃宮さんの透き通るような白い肌が文字通り沸騰したように首の先まで真っ赤に染め上がった。
「な、ななな……っ!」
彼女はバネ仕掛けのおもちゃのようにガタッ!と大きな音を立てて椅子から立ち上がる。
「な、何してるのよっ!!」
悲鳴のような裏返った叫び声が夏の教室にこだました。
「あら雪ちゃん。自分から私にすり寄ってきたくせに」
佐倉が意地悪くクスクスと笑いながら言うと雪乃宮さんの顔はさらに赤く爆発しそうになった。
「ち、違う!これはただの……その、暑さによる錯乱っていうか、不可抗力よ!」
彼女は慌てて机の上の参考書やノートをひったくるように鞄に詰め込んだ。
「湊くんのバカ!佐倉さんのバカ!」
完全に理知的な氷の女王の面影は消え去り、ただパニックを起こした普通の女の子になっていた。
雪乃宮さんは真っ赤な顔のままバンッ!と教室の後ろのドアを勢いよく開け放つ。
そして廊下を猛ダッシュで駆け抜けあっという間にその姿を消してしまった。
嵐が去った後のような静寂が再び教室に訪れる。
「……ふふっ。雪ちゃんったらやっぱり足が速いのね。可愛かったわ」
佐倉は満足げに微笑みながら自分の指先をうっとりと見つめている。
俺は急激な疲労感に襲われ近くの机に突っ伏した。
雪乃宮さんが嵐のように去っていった教室には再び重い静寂が降りてきた。
遠くから聞こえる吹奏楽部の練習の音が妙にクリアに耳に届く。
佐倉は満足げな表情を隠すことなく自分のロッカーへと歩き出した。
そして約束通り数冊の分厚い参考書を取り出してリュックに詰め込む。
「さあ湊くん。寄り道は終わりました。帰りましょう」
彼女はいつもの涼しい顔に戻って俺に声をかけてきた。
だが、俺は机に寄りかかったまま動こうとはしなかった。
「その前に聞かせてもらうぞ」
俺の低い声に佐倉の足がピタリと止まった。
「さっき誤魔化された指輪の話の続きだけど」
俺は真っ直ぐに彼女の背中を見つめた。
「雪乃宮さんをからかって上手くはぐらかしたつもりだろうけど、俺は忘れてないからな」
佐倉はゆっくりとこちらを振り返った。
その瞳からは先ほどの余裕や悪戯っぽい光が完全に消え失せている。
優等生としての冷徹な仮面が再び彼女の顔を覆っていた。
「……しつこいですね、湊くん。あなたには関係のないことだと言ったはずです」
「関係なくないね。俺も命がけで旧校舎の地下を這いずり回ったんだ。あんたが何を隠してるのか知る権利くらいあるはずだろ」
俺が一歩前に出ると佐倉は僅かに目を伏せた。
沈黙が教室を支配する。
真夏の太陽が彼女の影を黒々と床に落としていた。
やがて彼女は深い深い溜め息を一つ吐き出した。
「……本当に変な人。知ればあなたも後戻りできなくなるかもしれないのに」
佐倉はリュックのポケットに手を入れた。
そして地下室で見つけたあのベルベットの小さな箱を取り出し静かに蓋を開けた。
鈍く光るシルバーリング。
「この指輪は……」
佐倉の口から紡がれた言葉は想像以上に重く暗いものだった。
俺は息を呑んでその小さな銀の輪を見つめた。
夏休みの学校に隠された本当の闇。
佐倉の指先でつまみ上げられたシルバーリングが鈍い光を放っている。
重い口を開いた彼女の言葉を俺は静かに待った。
「この指輪は……この学校にいる、ある先生のものです」
「先生の?誰だよそれ」
俺が身を乗り出して尋ねると佐倉は静かに首を横に振った。
「名前を明かしても湊くんにはピンとこないはずです。あなたはまだその先生の授業を受けたことがありませんから」
「授業を受けてないって……じゃあなんであんたはその先生の物だってわかるんだよ」
「それは私が彼について個人的に調べていたからです」
佐倉は指輪の内側を愛おしむようにじっと見つめた。
「この指輪はただの装飾品ではありません。彼には彼女がいて……これはその女性とのペアリングなんです」
「ペアリング?」
俺は間の抜けた声を上げてしまった。
学校の怪談や恐ろしい事件の証拠品かと思いきや、ただの教師の恋愛沙汰の遺物だというのか。
「それならなんでそんなものが旧校舎の地下の金庫なんかに隠されてたんだよ。落とし物なら普通に探すだろ」
「そこが問題なんです」
佐倉は指輪をそっとベルベットの箱に戻しパタンと蓋を閉めた。
「大切なペアリングをわざわざ誰も立ち入らない旧校舎の地下、それも頑丈な金庫の中に隠す。そんな不自然な行動をとる理由はただ一つしか考えられません」
彼女の冷たい視線が俺を真っ直ぐに射抜く。
「絶対に誰にも見られてはいけない理由がその彼女との関係にあったということです」
俺は背筋が粟立つのを感じた。
名前も知らない教師の隠された恋愛事情。
それがなぜ佐倉の探す『真実』と繋がっているのか全く見当もつかない。
謎は解けるどころかさらに深く黒い沼のように俺たちの足元に広がっていたのだった。




