蚊帳の外
教室の空気がエアコンの温度設定以上に冷え切っていくのを感じた。
雪乃宮さんは佐倉からゆっくりと視線を外し、俺の方へとその氷のような瞳を向けた。
「湊くん」
静かなその呼びかけに俺の背筋がピクッと跳ねる。
「どうして佐倉さんと一緒にいるの?」
一切の感情を排したような冷ややかな声だった。
有無を言わさぬその威圧感に、俺の思考は完全にショートしてしまう。
「えっと、それはその……」
俺はしどろもどろになりながら必死に言い訳を探した。
深夜のゲリラ豪雨の中で一緒にずぶ濡れになってコインランドリーでカートに乗って遊んだこと。
旧校舎の密室に閉じ込められてバールでデグーを退治して、謎の指輪を見つけたこと。
どれ一つとしてこの氷の女王に正直に話せるような内容ではない。
「偶然会って、ちょっと探し物を手伝ってて……」
俺が絞り出したその曖昧な言葉尻をすかさず佐倉が奪い取った。
「そういうことよ雪ちゃん。湊くんは私のとても個人的なお願いを聞いてくれているの」
佐倉は俺の隣に一歩すり寄り、これ見よがしに親しげな距離感を作ってきた。
さっきまで俺を論理的な理屈で煙に巻いていたあの顔はどこにもない。
「いつも一人で勉強ばかりしている雪ちゃんにはわからないかもしれないけれど、誰かに頼り頼られる関係というのも悪くないものよ。ねぇ、湊くん?」
「は、はは。そうですね」
同意を求められ、俺は引きつった笑いを浮かべることしかできない。
雪乃宮さんの切れ長な瞳がさらに細められ、その奥に明らかな不快感の色が浮かんだ。
「……個人的なお願いって何よ。湊くんはそんな暇じゃないはずだけど」
「あら湊くんのスケジュールを雪ちゃんが管理しているの?随分と過保護なのね。過干渉は嫌われるって知らないの?」
佐倉がふふっと優越感に浸るような笑い声を漏らす。
雪乃宮さんの手元でノートの上を走っていたシャーペンがパキッと音を立てて芯を折った。
完全に俺をダシにしてバチバチの代理戦争を繰り広げている。
俺の知らないドロドロとしたマウント合戦だ。
結愛のあのストレートで重すぎる狂気とはまた違うベクトルで胃に穴が空きそうなプレッシャーだった。
「湊くんは私と同じ委員会なの。得体の知れない真似事に巻き込まないでちょうだい」
雪乃宮さんが放ったその冷たい言葉に佐倉は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに戻った。
「得体の知れないだなんて失礼ね。湊くんは自ら進んで私のサポートをしてくれているのよ」
次の瞬間にはまるで面白いオモチャを見つけた子供のようにニヤリと意地悪な笑みを浮かべたのだ。
「それに雪ちゃん。私の記憶が正しければ今期は委員会ではなくて、クラス係に割り当てられていたはずだけど?」
佐倉の指摘に雪乃宮さんの肩がビクッと跳ねた。
「委員会所属でもないのにそんな見え透いた嘘をついてまで、湊くんを私から引き離したいのね。それとも、そんなあったかもしれない未来に想いを馳せているの?」
「そ、それは……!」
普段は氷のように冷徹で隙のない雪乃宮さんが言葉に詰まり、明らかに動揺を見せている。
嘘の設定で俺を庇おうとしたのを完全に佐倉に見透かされてしまったのだ。
「苦しい言い訳をしてまで湊くんを囲い込もうとするなんて、雪ちゃんたら意外と可愛いところがあるじゃない」
佐倉は雪乃宮さんの机に両手をつき、顔を覗き込むようにしてさらに追撃をかけた。
「……っ!からかわないで。私はただ彼が変なトラブルに巻き込まれるのが見ていられなかっただけで……」
「ふーん。ただ他クラスの生徒のトラブルをそこまで気にするなんて、随分と親切なのね。本当は一人で勉強してるふりをして湊くんが来るのを待ってたんじゃないの?」
「な、何を言ってるの!そんなわけないでしょ!」
雪乃宮さんの透き通るような白い頬がみるみるうちに朱に染まっていく。
あの理知的な氷の女王が佐倉の手のひらの上で完全に遊ばれていた。
目を逸らし必死に冷静さを保とうとするが、その声はうわずりいつもの威圧感は見る影もない。
「雪ちゃんがそこまで湊くんに入れ込んでいるとは知らなかったわ。これは私の見込み違いだったかしら」
佐倉は大げさにため息をついてみせながらも、その瞳は楽しそうに笑っていた。
「入れ込んでなんか……!私はただ彼の不合理な行動を指摘しただけよ!」
「はいはいそういうことにしておいてあげる」
雪乃宮さんがムキになればなるほど佐倉のペースに巻き込まれていく。
俺は目の前で繰り広げられる信じられない光景にただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
学校中の男子を寄せ付けないあの孤高の美少女がこんなにも分かりやすくたじろぎ顔を真っ赤にしているなんて。
佐倉のからかいは言葉だけでは終わらない。
彼女はさらに一歩踏み込み、雪乃宮さんの机の横に立つと不意にその白く細い指先を伸ばした。
「……っ!な、何よ」
雪乃宮さんが身を引こうとするが、佐倉の指は逃げ道を塞ぐように彼女の耳元にかかる艶やかな黒髪を優しく掬い上げた。
「改めて見ても、本当に綺麗な髪ね。それにこの透き通るような白い肌。少しからかっただけでこんなに熱を帯びて赤く染まってしまうなんて」
甘く囁くような佐倉の声が静かな教室に響く。
雪乃宮さんは完全に虚を突かれたように身を固くして、わずかに潤んだ瞳で佐倉を見上げている。
「さ、触らないで……」
口では拒絶の言葉を紡ぎながらも雪乃宮さんの声には普段の鋭いトゲが全くなかった。
むしろどこか熱を帯びて甘く震えているようにすら聞こえる。
佐倉はそんな彼女の反応を愛おしむように今度はその熱い頬をそっと撫でた。
「強がっている雪ちゃんも素敵だけれど、こうして私の前でだけ見せてくれる素顔もたまらなく魅力的よ」
佐倉が顔を近づけ二人の距離がゼロに近づいていく。
窓から差し込む真夏の強い光が美しい二人の少女のシルエットを逆光で美しく縁取っていた。
それはまるで映画のワンシーンかあるいは完成された百合の絵画のような息を呑むほどに耽美な光景だった。
「……ちょっと。佐倉さん、近すぎ……」
「あら嫌?でも雪ちゃんの反応、すごく可愛い」
もはや完全に俺の存在など二人の頭からは消え去っているらしい。
最初は俺をダシにしたバチバチのライバル関係だったはずがいつの間にか甘く危険な香りのするいちゃつきへと変貌を遂げていた。
氷の女王を自在に翻弄し、甘やかす優等生。
顔を真っ赤にしてされるがままになっている雪乃宮さん。
俺は完全に蚊帳の外に置かれたまま、二人の間に流れる異常に甘い空気をただ特等席で眺め続けることしかできなかった。
終わらない夏休みの教室に突然咲いた狂い咲きの百合の花。
俺は自分がここにいる意味を完全に見失いながら、ただその美しすぎる光景に呆然と立ち尽くしていたのだった。




