不吉な予感は必ず当たる。
「雪乃宮さん……?」
俺は信じられない思いで目の前に立つ少女の名前を呼んだ。
つい数時間前に電話越しで言葉を交わしたはずの彼女が、なぜ俺の家の玄関に立っているのか。
「こんにちは湊くん」
雪乃宮さんは涼やかな声で挨拶を返した。
その表情はどこまでも冷静で、少しも取り乱した様子はない。
彼女の黒くて澄んだ瞳が、俺と、そして隣で顔を真っ赤にしている佐倉を順番に観察するように見つめた。
「あの……佐倉さん。どうして湊くんの家から顔を赤くして出てくるの」
雪乃宮さんは極めて事務的な口調で問いかけてきた。
「それに今ドアノブをガチャガチャと力任せに回す大きな音が聞こえたけれど」
「っ……!そ、それは……!」
痛いところを突かれた佐倉がさらに顔を赤くしてしどろもどろになる。
完璧な論理で武装していたはずの彼女が雪乃宮さんの冷静な指摘の前では完全に形無しだった。
「おや、雪乃宮さんじゃないの」
背後から結愛の甘ったるい声が聞こえ、彼女が俺の肩越しに顔を出した。
「奇遇だね。湊くんのお家に何か用事でもあったのかな?」
結愛の顔には相変わらず歪な余裕の笑みが貼り付いている。
雪乃宮さんは結愛の姿を認めると、小さく会釈をした。
「こんにちは結愛さん。ええ……少し湊くんに確認したいことがありまして」
雪乃宮さんは淡々と答えながらもその瞳の奥には明らかな困惑の色が浮かんでいた。
「それにしても不思議な状況ね」
彼女は少し首を傾げて理路整然と目の前の光景を分析し始める。
「同級生の佐倉さんがなぜか激しく狼狽えながら湊くんの家にいて。さらには結愛さんがとても機嫌良さそうにそれを見守っている」
雪乃宮さんの冷静な声が真夏の暑い空気を切り裂くように玄関に響く。
「私にはこの状況の因果関係が全く理解できないのですが。誰か合理的な説明をしてくれない?それに……佐倉さん。どうして湊くんの家から顔を赤くして出てくるの?」
雪乃宮さんは冷静で優等生らしい雰囲気を保ちながらも、少しだけ語尾を崩して問いかけてきた。
「っ……!そ、それはね……!」
痛いところを突かれた佐倉がさらに顔を赤くしてしどろもどろになる
完璧な論理で武装していたはずの佐倉がこれほどまでに狼狽える姿。
それは冷静な雪乃宮さんにとっても完全に予想外だったようだ。
いつもは、冷徹なクラスメイトの茹でダコのような赤い顔を正面から見て雪乃宮さんはふっと目を丸くした。
意表を突かれた彼女はわずかに唇を開く。
「佐倉さん、あなた……」
雪乃宮さんが何かを言いかけようとしたその瞬間だった。
「まぁ中に入ろう?」
背後から結愛の甘ったるい声が雪乃宮さんの言葉を遮るように響いた。
俺の肩越しに顔を出した結愛は相変わらず歪な余裕の笑みを貼り付けている。
「立ち話もなんだし、外も暑いでしょ。雪乃宮さんも湊くんに用事があったんだよね?」
結愛は俺の腕に絡みつきながら、まるでこの家の主人のように来訪者を招き入れる。
雪乃宮さんは結愛の言葉に少しだけ警戒の色を見せたが静かにコクリと頷いた。
しかしその横で限界を迎えていたのは佐倉だった。
「……私はこれで失礼します」
佐倉は真っ赤な顔を誤魔化すようにプイッとそっぽを向いた。
「え?佐倉さん帰っちゃうの?」
「はい。これ以上ここに滞在するのは私の精神衛生上良くないので」
佐倉は早口で言い捨てると足早に玄関の外へと歩み出る。
「湊くん。くれぐれも気をつけてくださいね」
最後に俺に向かって清楚で冷たい声で忠告を残し、彼女は逃げるように去っていった。
嵐のような佐倉が去り玄関には俺と結愛と雪乃宮さんの三人だけが残された。
「ふふっ。佐倉さんって本当に面白いね」
結愛は楽しそうに笑いながら雪乃宮さんに向き直った。
「さあ雪乃宮さんもリビングへどうぞ。ちょうどケーキがあるの」
「ありがとうございます、結愛さん。湊くん、お邪魔させてもらうわ」
俺たちは靴を脱いだ雪乃宮さんをリビングへと案内した。
リビングのテーブルには先ほどまで俺たちが食べていたケーキが残っていた。
結愛が手際よく雪乃宮さんの前に新しい紅茶を淹れて席につく。
俺の隣には結愛が陣取り正面に雪乃宮さんが座る形になった。
「それで雪乃宮さん。湊くんに確認したいことって何かな?」
結愛が甘い笑顔のまま問いかける。
雪乃宮さんは出された紅茶を一口だけ飲むと、静かにティーカップを置いた。
「実は、さっき佐倉さんからおかしな電話がかかってきたんです」
雪乃宮さんの冷静な黒い瞳が俺を真っ直ぐに見据える。
「私が数年前の〇〇大学のゼミ写真に写っているとかいう話だったんですけど」
俺はビクッと肩を震わせた。
あの不気味な合成写真の件だ。
「私はそんな大学行ったこともないし写真に写るはずもない。でも佐倉さんはひどく真剣な様子だった」
雪乃宮さんは淡々と言葉を紡ぐ。
「だから湊くんに直接事情を聞こうと思って来た。あなたも一緒にいたみたいだしちゃんと説明してくれない?」
彼女は少しだけ首を傾げた。
「その写真のこと……湊くんは何か知っているんでしょ?」
冷静で優等生らしい口調の裏に隠された鋭い探求心。
狂気を秘めた義姉が隣で微笑む中。
俺は雪乃宮さんの真っ直ぐな問いかけにどう答えるべきか激しく動揺していた。
俺が覚悟を決めて口を開きかけたその時だった。
「ああその写真なら私が見せたんだよ」
隣に座っていた結愛がクスリと笑いながら、突然会話に割って入ってきた。
「え……?」
「結愛さんがですか」
雪乃宮さんは少し驚いたように黒い瞳を瞬かせた。
結愛は全く悪びれる様子もなく、ティーカップに指を添えて微笑んだ。
「そうそう。私がアルバムを整理してたら偶然見つけてね。湊くんにこれ、雪乃宮さんに似てない?って見せたの」
「アルバム……ですか」
雪乃宮さんの端正な顔に明らかな困惑の色が浮かぶ。
「でも佐倉さんのお話ではあれは〇〇大学のゼミの写真だと……なぜ結愛さんがそのような写真をお持ちだったのですか」
「さあなんでだろうね。もしかしたら親戚の誰かの写真に紛れ込んでたのかも」
結愛はわざとらしく小首を傾げてみせた。
その態度はあまりにも自然で嘘をついている罪悪感など微塵も感じられない。
「でも私は……」
雪乃宮さんがさらに理路整然と追及しようとするが、結愛はそれを甘い声で遮った。
「まあまあ他人の空似ってやつだよ。雪乃宮さんもそんな昔のよく分からない写真のことで、わざわざ来なくたってよかったのに」
結愛の笑顔にはこれ以上この話題に踏み込むな、という暗黙の圧力が込められていた。
俺は隣で静かに冷や汗を流していた。
結愛は明らかに嘘をついている。
あの写真は佐倉が独自に見つけ出したもので、結愛が見せたわけではない。
なぜ結愛は雪乃宮さんに対してあからさまな嘘をつき強引に話を逸らそうとしたのか。
もしかして結愛はあの合成写真の秘密や「あの先生」の正体を最初から知っているのだろうか。いや、知っていないわけが無い。
「……分かりました。結愛さんがそうおっしゃるなら」
雪乃宮さんは全く腑に落ちていない様子だったが、結愛にこれ以上反論することは避けたようだった。
彼女は静かにティーカップを持ち上げ冷めかけた紅茶を一口含む。
しかしその冷静な黒い瞳の奥では、この家の異様な空気と結愛の不自然な嘘を確かに分析し始めているはずだ。
結愛の強引な嘘によってリビングには不自然で重苦しい沈黙が落ちていた。
カチャリとティーカップがソーサーに置かれる小さな音が響く。
沈黙を破ったのは雪乃宮さんだった。
「ところで湊くん」
彼女は冷静な黒い瞳を俺に向けて小さく首を傾げた。
「彼女とは最近どうなの?」
一瞬その言葉が何を意味するのか、理解ができなかった。
思い浮かんだ名前に俺はビクッと肩を揺らした。
美咲ちゃん。
俺がつい最近まで付き合っていた彼女の名前。
「って……」
「この前も少し悩んでいるようだったから。彼女として、うまくやっているのか気になって」
雪乃宮さんは純粋な疑問として俺と美咲の近況を尋ねてきたらしい。
俺は気まずさに目を逸らして頬を掻いた。
「……実は、別れたんだ」
俺の言葉に雪乃宮さんの端正な顔がはっきりと驚きに染まった。
「え……別れた?」
「ああ。色々とあってさ」
「そう……それは全く知らなかったわ」
雪乃宮さんが目を瞬かせて言葉を失っていると、隣から結愛の甘い笑い声が聞こえてきた。
「ふふっ。そうなの雪乃宮さん」
結愛は俺の腕にすり寄りながらとても機嫌良さそうに微笑んだ。
「二人はもう綺麗さっぱりお別れしたんだよ。美咲ちゃんも湊くんには私が一番だって分かってくれたみたいだし」
結愛は美咲と俺が付き合っていたことも別れたことも全て知っている。
そして狂気的な独占欲を持つ彼女にしては珍しく美咲の存在をあっさりと『許して』いた。
自分から、湊くんから離れてくれたから許してあげたの。
そんな勝者の余裕すら感じさせる結愛の歪な態度。
「結愛さんは……そのことをご存知だったんですね」
雪乃宮さんは驚きから立ち直り、静かに結愛を見つめ返した。
「うん。だって私は湊くんの家族だもん。湊くんのことは何でも知ってるよ」
別れたという事実を聞いて雪乃宮さんは小さく息を吐いた。
そしてティーカップの縁を静かに指でなぞりながら、俺の顔を真っ直ぐに見つめる。
「……実はもうひとつ、湊くんに言おうと思っていた事があったの」
「言おうとしていた事?」
「ええ。この前、街で偶然見かけたのだけど……」
雪乃宮さんは一切の感情を交えない淡々とした声で言葉を紡いだ。
「美咲さんが他校の男子生徒と腕を組んで仲睦まじく歩いていたわ」
「え……」
突然の報告に俺の心臓がトクンと嫌な音を立てた。
美咲ちゃんが他の男と腕を組んで歩いていた。
別れたばかりだというのに、そんなにあっさりと次の相手を見つけていたのか。
いや、もしかすると俺と付き合っている時からすでにその男と親しかったのではないか。
色々な思考が頭を巡り、胸の奥で黒いモヤのようなものが渦を巻く。
俺は思わず何か言いたい気持ちに駆られて、無意識に口を開きかけた。
しかし俺が未練がましい言葉を発するよりも早く雪乃宮さんが涼やかな声でそれを遮った。
「でも別れたのなら、浮気でもなんでもない、という事ね」
雪乃宮さんのその言葉は、あまりにも冷静で絶対的な正論だった。
そこには俺を責める響きも同情する響きも一切ない。
ただ事実関係を論理的に整理しただけの、純粋な確認作業だった。
「ええ、そうね。もう赤の他人なんだから誰と歩いていようと自由だわ」
俺の隣で結愛がクスリと楽しそうに笑いながら雪乃宮さんの言葉に同意する。
「湊くんには私がいるんだし美咲ちゃんのことはもうどうでもいいよね?」
結愛はまるで勝利宣言でもするように俺の腕にさらに強く抱きついてきた。
冷たい正論で俺の未練を切り捨てたはずの雪乃宮さんだったが。
彼女は静かにティーカップを置くと少しだけ同情するような色を黒い瞳に浮かべた。
「でも……確かに湊くんの気持ちも分かるわ」
「え?」
予想外の言葉に俺は思わず間抜けな声を漏らした。
常に論理的で感情に流されない彼女が俺の複雑な心中を察して寄り添うなんて珍しい。明日は雨が降るのだろうか。
雪乃宮さんは小さく息をつき、静かに言葉を続けた。
「だって美咲さんが腕を組んで歩いていたその男……着ていた制服が東岸高校のものだったから」
「東岸高校……!?」
その学校の名前を聞いた瞬間、俺の背筋にゾクッと冷たいものが走った。
東岸高校。
どうしてずっと真面目だったはずの美咲ちゃんが、よりによってそんな不良校の男と腕を組んで歩いているんだ。
いや、東岸高校といえば俺の頭にある一人の人物の顔が思い浮かぶ。
灰だ。
あの荒れた学校の生徒でありながらもどこか掴みどころのない不思議な雰囲気を持つ人。いや、ただ単に変な奴だ。
俺の知り合いである灰と同じ学校の男と元カノの美咲ちゃんが繋がっている。
これはただの偶然なのだろうか。
それともこの狂った夏休みの中で俺の知らない見えない糸がどこかで不気味に絡み合っているのだろうか。
「真面目だった彼女が不良校の生徒と付き合っていたとなれば、湊くんが複雑な気持ちになるのも無理はないわ」
雪乃宮さんは俺の動揺を未練やプライドの問題だと解釈しているようだったが、俺の脳内はそれどころではなかった。
「へぇ、東岸高校ねぇ」
俺の隣で結愛がどこか楽しそうに目を細めて、冷めた紅茶を見つめている。
終わったはずの元カノという話題が、不良校という不穏なキーワードを引き連れて再び俺の思考をどす黒く塗りつぶしていく。




