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暗闇と繋いだ手

 無事に埃まみれの密室から抜け出した俺たちは薄暗い旧校舎の廊下に立っていた。


 佐倉の肩に乗っていたデグーがチチチッと鋭い鳴き声を上げる。


 そして何を思ったのか、不意に彼女の肩から廊下の床へと軽やかに飛び降りたのだ。


「あ……待ちなさい!」


 佐倉が珍しく声を荒げて手を伸ばす。


 だが巨大なデグーは俺たちの顔を一度振り返るとまるで何かを知らせるかのように廊下の奥へと走り出してしまった。


「追いかけましょう、湊くん!」


 俺たちは慌てて小動物の後を追って走り出した。

 カツンカツンと佐倉の靴音が響く。


 デグーは迷いのない足取りで旧校舎のさらに奥深くへと進んでいく。


 そこはかつて生徒たちが使っていた教室エリアからは完全に外れた入り組んだ場所だった。


 突き当たりの壁にぶつかるかと思われた瞬間、デグーは壁の一部と同化していた古い木製の扉の隙間へと滑り込んだ。


 「あんなところにドアが……?」


 俺は息を切らしながらその古びた扉の前に立ち止まった。

 周囲の壁と同じ色に塗られ、意図的に隠されているようにしか見えない。


 だがドアの上部には色褪せたプラスチックのプレートが掲げられていた。


『国語準備室』


 俺がその文字を読み上げると追いついた佐倉が静かに頷いた。


「……ここです。私が本当に探していた場所は」


 彼女の探していたものがあの開かずのロッカーではなかったことに俺は驚きを隠せなかった。


「ロッカーじゃなかったのか?」


「ええ。これは直感ですが、あのロッカーはただのダミーあるいは綾目先生がデグーを飼うための隠れ蓑に過ぎなかったのでしょう」


 佐倉はドアノブに手をかける。

 鍵はかかっておらずギィィと重い音を立てて扉が開いた。


 部屋の中は先ほどの準備室とは比べ物にならないほど、大量の古い書籍や書類が山積みになっていた。


 窓は完全に板で塞がれており外の光は一切差し込まない。

 スマホのライトで照らすと部屋の中央でデグーがちょこんと座りこちらを見つめていた。


 「あのデグーは綾目先生に飼われていたのではなく、この部屋の本当の主を知っていたのかもしれません」


 佐倉は埃を払いながら部屋の奥にある古い木製のデスクへと歩み寄る。


 そこには誰かが最近まで使っていたような真新しい万年筆と一冊の分厚い黒いノートがぽつんと置かれていた。


「これが……あんたの探し物なのか?」


 俺が尋ねると彼女はノートの表紙をそっと撫でながら深く息を吸い込んだ。


「はい。ひた隠しにしてきた過去、そして私自身が直面している問題のすべての答えがここにあるはずです」


 優等生の仮面の下に隠されていた彼女の本当の目的。

 終わらない夏休みの旧校舎で巨大なネズミに導き出された秘密の部屋。


 佐倉は埃を被った黒いノートを手に取り静かに表紙を開いた。


 スマホのライトが黄ばんだ紙面を円く照らし出す。


 俺も息を呑んで彼女の肩越しにその中身を覗き込んだ。


 綾目先生の恐ろしい日記か、それとも学校の隠蔽工作の証拠か。


 しかしそこに書かれていたのは期待していたような長文の告白ではなかった。


 真っ白なページの中央にただ一言、短いメモのようなものがインクで殴り書きされているだけだ。


 そこには校内のある特定の場所を示す言葉が記されていた。


 「何なんだよ、これ」


 俺が拍子抜けして尋ねると佐倉はノートの文字を細い指先でなぞりながら静かに答えた。


「おそらく……これこそ私の探していたものの所在です」


 その生真面目なトーンに俺は思わず天を仰いだ。


「はあ?これが探していたものじゃないのかよ」


 俺の呆れたようなツッコミが埃っぽい国語準備室に響き渡る。


 バールを持ち歩き、巨大なデグーの道案内に従って、命がけで密室から脱出してようやく見つけた秘密のノート。


 それがまさかただの次の目的地へのヒントに過ぎなかったなんて。


 「私はあくまで真実を探しているんです。このノートはその真実が隠されている場所を示すための重要な鍵に過ぎません」


 佐倉は俺の呆れ顔など全く気にする様子もなく、淡々とノートをリュックにしまった。


「RPGのおつかいクエストかよ……」


 俺が深い溜め息をつくと、足元で巨大なデグーが同意するようにチチチッと鳴いた。


 綾目先生という不気味な追跡者がいつ現れるかもわからないこの危険な旧校舎で、俺たちの探索はまだ終わらないらしい。


「さあ行きましょう湊くん。次の目的地がわかった以上、ここに長居は無用です」


 ノートの切れ端に記されていたのは旧校舎のさらに下層に位置する場所だった。


「地下ボイラー室」


 佐倉がその文字を読み上げた時俺の背筋に冷たいものが走った。


 かつて石炭で校舎全体を暖めていた時代の名残であり、現在は完全に封鎖されているはずの空間だ。


 俺たちは巨大なデグーを佐倉のリュックに押し込みカビ臭い階段をさらに下へと降りていった。


 地下へ続く階段は下に行けば行くほど空気が重く冷たくなっていく。


 夏の昼下がりだというのにまるで真冬の冷凍庫に足を踏み入れたような錯覚に陥った。


 重い鉄の扉を佐倉のバールでこじ開けると、そこには完全な暗闇が広がっていた。


 窓一つない地下室は光を一切通さない絶対の闇だ。


 俺と佐倉は同時にスマホのライトを点灯させた。


 しかし、ボイラー室の暗闇は予想以上に深く濃かった。


 LEDの白い光は数メートル先の埃を照らし出すだけでその奥に潜む巨大な空間の全貌を全く見せてはくれない。


 まるで光そのものが闇に吸い込まれて消えてしまうような不気味な感覚だった。


 ポチャン。


 どこからか水滴の落ちる音が静まり返った地下室に響き渡る。


「……行きましょう」


 佐倉の声はいつもの優等生らしい冷静さを保とうとしていたがわずかに震えているのがわかった。


 彼女も一人の女子高生なのだ。

 こんな得体の知れない暗闇が怖くないはずがない。


 俺が先頭に立って一歩を踏み出そうとした時だ。


 背後から俺のTシャツの裾をギュッと掴む小さな力が働いた。

 振り返るとスマホの淡い光の中で佐倉が俯き加減で立っている。


「暗闇は……少しだけ視覚的な恐怖を伴いますね」


 理屈っぽい言い回しで強がっているがその指先は白くなるほど俺の服を強く握りしめていた。


 俺は何も言わず彼女のその小さな手をそっと握り返した。


「え……」


「その、はぐれたら面倒だろ。ここは、俺が前を歩く」


 佐倉の手は氷のように冷たかった。


 結愛のあの絡みつくような重い執着とも違う。

 美咲ちゃんのあの無邪気で温かいハグとも違う。


 ただ恐怖に耐え目的を果たそうとする、震える少女の等身大の手だった。


 佐倉は少しだけ躊躇った後俺の指をきゅっと握り返してきた。


 俺たちは互いの体温だけを頼りに光の届かない巨大な鉄の迷宮へと足を踏み入れていく。


 錆びついた巨大な配管が頭上を這い回り巨大なボイラーの残骸が闇の中から怪物のようにヌッと姿を現す。


 繋いだ手から佐倉の早い鼓動が伝わってくるようだった。


 足元には正体不明の泥水が溜まっており、一歩進むたびにピチャリと嫌な音を立てる。


 綾目先生がいつ背後の暗闇からあのふんわりとした笑顔で現れるかもしれない。


 あるいは全く別の何かがこの地下室には潜んでいるのかもしれない。


 極限の緊張感の中で俺たちはただ一つの真実を見つけるために深い深い暗闇の底を這うように進み続けた。

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