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密室からの解放

 ガタガタガタッ!


 錆びついた南京錠が悲鳴を上げ、ついにその限界を迎えた。


 バチンッという金属が弾け飛ぶ音が準備室の静寂を切り裂く。


 俺と佐倉は目の前でゆっくりと開き始めるロッカーの扉を息を呑みながら見つめた。


 俺の心臓はまるでドラムを叩くように激しく打ち鳴らされ、呼吸は浅くなる。


 中にいるのが何であれ俺たちの命はない。そんな絶望が俺の脳裏を支配した。


「湊くん、下がって!」


 佐倉の鋭い声が俺の動きを止めた。


 彼女は床に下ろしていたリュックからバールを再び掴み、しっかりと両手で構えた。


 昨夜のコインランドリーでの遊びで見せた笑顔など微塵もなく、氷のように冷徹な瞳でロッカーを見据えている。


「……扉を壊すより先に、アレを叩きます」


 彼女の言葉には一切の迷いも恐怖もなかった。

 優等生の彼女が、まるで熟練の戦士のような気迫を纏っている。


 俺は彼女の気迫に圧倒され、ただコクコクと頷いて一歩後ろへ下がった。


 ギィィィ……。


 錆びた鉄の扉がゆっくりと、しかし確実に開いていく。

 ロッカーの奥の薄暗闇から、何かが這い出てくる。


 それは俺が想像していたような化け物でも、狂った人間でもなかった。


「……え?」


 俺の口から、戸惑いの声が漏れた。


 開かれたロッカーの底から這い出てきたのは一匹のネズミだった。


 しかし、それはただのネズミではなかった。


 異常に大きい。いや、俺の見てきたネズミが小さいだけなのかもしれない。


 毛並みは悪く、ところどころ剥げ、目が薄暗闇の中で不気味に光っている。


 そしてその口元には何かの欠片のようなものがこびりついていた。


 綾目先生の「お腹が空いた」という言葉が、不気味な意味を持って脳裏をよぎる。


「……っ!」


 佐倉は迷うことなくバールを振り上げた。

 巨大ネズミは、佐倉の殺気を感じ取ったのか、チチチッと鋭い鳴き声を上げると、俺に向かって猛然と飛びかかってきた。


「うわあっ!」


 俺は悲鳴を上げ、とっさに腕で顔をかばう。

 しかし、ネズミの爪が俺の腕を切り裂く前に金属音が鳴り響いた。


 ガキィンッ!


 佐倉の振り下ろしたバールが、空中でネズミの胴体を完璧に捉えていた。


 ネズミは悲鳴を上げる暇もなく、埃っぽい床に叩きつけられる。


「……湊くん、大丈夫ですか?」


 佐倉はバールを構えたまま、息を乱すことなく俺に問いかけた。

 床に転がったネズミはピクリとも動かない。


「あ、ああ……助かった」


 俺は腕の震えを必死に抑えながら、佐倉の驚異的なアクションに呆然としていた。


 優等生の彼女がなぜこれほどまでに戦闘に慣れているのか。


 彼女が深夜の学校で探している秘密は俺の想像以上に深く、危険なものなのかもしれない。


 床に転がった獣に佐倉が静かに近づいていく。


 俺はネズミという生き物が昔から生理的にどうしても受け付けなかった。


 あの這い回るような動きと長い尻尾を想像するだけで全身の毛が逆立ちそうになる。


 見ることすら嫌で俺は咄嗟に両手で自分の目をきつく覆ってしまった。


 暗闇の中で佐倉の足音だけがカツンカツンと響く。


 彼女が手にしたバールでとどめを刺す恐ろしい音を覚悟して俺はさらに体を丸め肩を震わせた。


「……湊くん?」


 不意に優等生の落ち着いた声が俺の名前を呼んだ。

 何かグロテスクなものを見せられるのではないかとビクビクしながら俺は恐る恐る指の隙間から目を開く。


「え……?」


 俺の口から間の抜けた声が漏れた。

 佐倉は凶器のバールをすでに床に置いていた。


 そして彼女の細い腕の上にはさっきまで目を光らせていたあの獣がちょこんと乗せられていたのだ。


 先ほどバールで打たれたのは峰打ちのような手加減だったのか獣は大人しく佐倉の腕にすり寄っている。


「な……危ないだろ佐倉!それネズミ……」


 俺が慌てて叫ぶと彼女は腕の上の獣を愛おしそうに撫でながら静かに首を横に振った。


「いいえ湊くん。これはネズミではありません。デグーという小動物ですよ」


「デグー……?」


 聞き馴染みのない名前に俺は困惑して瞬きを繰り返す。


「はい。アンデス地方の山岳地帯に生息する草食性のげっし類です。知能が非常に高くて社会性もあり、人間に比較的よく懐く生き物なんですよ」


 佐倉はまるで生物の授業でもしているかのように淡々と解説を始めた。


「昼行性で鳴き声で仲間とコミュニケーションをとることからアンデスの歌うネズミなんて呼ばれたりもします。ただ……この子は野生の個体や一般的なペットと比べると少しばかり大きすぎますが」


 確かに彼女の腕に乗っているデグーは俺の知っている小動物のサイズを明らかに超えていた。


 しかし佐倉の指先を器用に甘噛みしているその愛嬌のある姿を見ると、先ほどまでの得体の知れない恐怖は嘘のように消え失せていく。


「じゃあ……綾目先生の言っていたお腹が空いたって……」


「おそらくこの子のことでしょうね。彼女はこの旧校舎でこの大きなデグーを秘密裏に飼育していたのかもしれません」


 俺たちは深い息を吐き出しながら閉じ込められた密室の中で予期せぬ小さな命と向き合っていた。


 佐倉の腕の中で再び巨大なデグーがチチチッと愛嬌のある声を上げた。


 俺はその間抜けな鳴き声を聞いてようやく全身から嫌な冷や汗が引いていくのを感じた。


「でも……どうやってここから出るんだよ。綾目先生に外から鍵をかけられちゃったんだぞ。立て付け悪いから古い内鍵も空かないし」


 俺が引き戸のノブを無意味にガタガタと揺らすと佐倉は静かに首を横に振った。


「慌てないでください湊くん。バールで暴力的にドアを破壊すれば後で学校側に器物破損の言い逃れができなくなります。ここは頭脳的に解決しましょう」


 彼女はデグーを自分の肩にそっと乗せると一直線にドアの前に歩み寄った。


 そしてスマホのライトをつけて木製の引き戸の隙間や金具の構造を丹念に観察し始める。


「……なるほど。やはり古い校舎特有の構造的な欠陥がありますね」


 佐倉の唇の端がわずかに吊り上がった。


「どういうことだ?」


 俺が尋ねると彼女はドアの枠にはめ込まれている金属のプレートを指差した。


「外から鍵をかけられた音から推測するに、外側には南京錠を通すための掛け金が取り付けられているはずです。しかしこの扉の枠を見てください」


 彼女の細い指先が示す先には背景の色と同化しているマイナスネジが二つ縦に並んで打ち込まれていた。


「この準備室は昔何か高価な機材を保管するため、それと元々の鍵が劣化していることから、後に外鍵の機構を増設したのでしょう。ですがその施工が甘かった。掛け金を受け止める側の金具、つまり受け座のネジが密室となる内側から留められているんです」


 俺はその言葉の意味を理解してハッと息を呑んだ。


「つまり……そのネジを内側から外してしまえば」


「ええ。外の南京錠がどれだけ頑丈に閉まっていようと、受け座ごと外れてしまえば扉は簡単に開きます。古典的なトリックの裏返しですね」


 佐倉は俺に向かってスッと手のひらを差し出した。


「湊くん。十円玉か硬貨を持っていませんか?マイナスドライバーの代わりになります」


「けどさ、十円玉じゃ力も上手く加わらないから回らないんじゃ?」


「湊くん。私を舐めないでくれませんか?私は今ここで湊くんをみっともない姿にしてあげることも可能です」


 俺は結愛に制圧されたことや灰を不良から助けた時のことを思い出した。お世辞にも俺は強くない。


 つまり、ここで争い事になれば負けるのはもちろん俺だ。


 俺は慌ててポケットを探り、財布から十円玉を取り出して彼女の手に乗せた。


 佐倉は硬貨の縁をネジの溝に当てるとゆっくりと力を込めて回し始める。


 ギギッ……というくぐもった金属音と共に長年放置されていた錆びたネジが少しずつ回転し始めた。


 二つのネジを完全に抜き取るとカランと小さな音を立てて外側の重い掛け金が外れる気配がした。


「さあ、開きますよ」


 佐倉が引き戸に手をかけて横にスライドさせると先ほどまでびくともしなかった扉が嘘のようにあっさりと開いた。


 薄暗い廊下の空気が一気に埃っぽい準備室へと流れ込んでくる。

 腕力に頼るのではなく知性と観察眼だけで密室を解き明かした見事な手際だった。


「すげえ……本当に何者なんだよ」


 俺が感嘆の声を漏らすと佐倉は肩のデグーを撫でながら静かに微笑んだ。


「ただの優等生ですよ。さあ綾目先生が戻ってくる前に本来の目的を果たしましょう」

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