微笑みの生贄
扉がゆっくりと開き廊下の光が埃っぽい準備室に差し込んできた。
俺は息を呑んでシルエットの正体を凝視する。
そこに立っていたのは結愛でも雪乃宮さんでもなかった。
「あの、こんな暗いところで何をしているんですか?」
静かな旧校舎にひどく場違いな間延びした柔らかい声が響いた。
振り上げられていた佐倉のバールが空中でピタリと止まる。
「……綾目先生」
佐倉が微かに動揺を含んだ声でその人物の名を呼んだ。
現れたのは若い女性の教師だった。
薄い色のカーディガンを羽織りふんわりとしたズボンを穿いている。
教師というよりはどこかのカフェの店員のようなおっとりとした雰囲気を纏っていた。
俺はその顔に全く見覚えがなかった。
全校の教師の顔をすべて把握しているわけではないが、少なくとも俺の授業を受け持ったことは一度もないはずだ。
綾目先生と呼ばれた彼女はバールを構えたままの佐倉を見ても、悲鳴を上げたり叱りつけたりする様子は全くない。
「佐倉さん。夏休み中なのに学校の探索だなんて熱心ですね」
彼女はふんわりと微笑みながらゆっくりと部屋の中へ足を踏み入れてくる。
カツン。
その足元のヒールが鳴らした音は先ほどまでドアの向こうで俺たちを恐怖の底に突き落としていたあの無機質な足音と全く同じものだった。
彼女が俺たちをこの部屋に閉じ込めたのか。
それともただ偶然通りかかって鍵を開けてくれただけなのか。
「それにそちらは……湊さんですよね?」
初めて会うはずの俺の名前を彼女はなぜか知っていた。
さん付けで呼ばれたことに強い違和感を覚える。
「どうして俺の名前を……あなたの授業なんて受けたことないのに」
俺が警戒心をむき出しにして尋ねると、彼女は困ったように小さく首を傾げた。
「ふふっ。学校の生徒さんのお名前くらいちゃんと把握しています。それにしても。旧校舎は老朽化が進んでいて危ないから入ってはいけないと注意喚起されているはずなのに」
物腰の柔らかい言葉とは裏腹に彼女の視線は俺たちではなく部屋の奥にある錆びついた鉄のロッカーへと向けられていた。
俺の隣で佐倉がバールを下ろすことなく身をこわばらせているのがわかる。
閉じ込められていた密室の扉を開けたのがこのおっとりとした見知らぬ教師だったという事実。
そして佐倉が探している『開かずのロッカー』のすぐそばに彼女が現れたという奇妙な偶然。
俺は背筋に冷たいものが走るのを感じながら目の前の柔らかい微笑みの奥にある得体の知れない気配から目が離せなくなっていた。
「さあこんな埃っぽい部屋からはもう出ましょう。案内しますから私についてきてくださいね」
綾目先生はそう言って再びふんわりと笑うと、開いたドアの横で俺たちが出てくるのを待つように立ち止まった。
綾目先生のふんわりとした微笑みには逆らえない得体の知れない圧力が潜んでいた。
俺は無言で頷き、佐倉に視線で合図を送った。
佐倉も唇を強く噛み締めながらゆっくりとバールを下ろす。
だがその手から凶器を手放すことはせず警戒を解いていないことは明らかだった。
「さあ行きましょうか。湊さん、佐倉さん」
綾目先生は俺たちが従うことを最初から知っていたかのように優雅に背を向けた。
薄暗い廊下へと続く開かれた扉。
俺はこの息苦しい密室からようやく抜け出せることに少しだけ安堵の息を吐いた。
しかし俺が部屋の出口へ向かって一歩を踏み出そうとしたその瞬間だった。
ガタッ。
背後から鈍い金属音が鳴った。
俺の足がコンクリートの床に縫い付けられたようにピタリと止まる。
気のせいではない。
音は間違いなく俺たちのすぐ後ろから聞こえた。
ガタガタガタッ!
今度は明確な暴力性を伴った激しい音が部屋中に響き渡った。
音の出所は部屋の最奥に鎮座しているあの赤茶色に錆びついた『開かずのロッカー』だ。
まるで中に閉じ込められた何者かが外に出ようと必死に内側から鉄の扉を叩きつけているような音だった。
「な……っ」
俺は息を呑んでゆっくりと振り返った。
佐倉も目を大きく見開き、再びバールを強く握り直している。
ドンッ!ドンッ!
ロッカーの中から内側を殴りつけるような重い衝撃音が連続して鳴り響く。
古い鉄製の扉がその衝撃に合わせて不気味にたわみ軋み声を上げていた。
ネズミや野良猫が入り込んだというような生易しいものではない。
人間の力あるいはそれに匹敵する何かが中で暴れ狂っている。
鍵が錆びついて誰も開けられないはずのロッカーの中に一体誰がいつから入っているというのか。
密室の静寂を切り裂くようなその異常な胎動に俺たちの時間は完全に停止した。
廊下に出ようとしていた綾目先生も足を止めゆっくりと振り返る。
彼女の顔からは先ほどまでのふんわりとした微笑みが完全に消え失せていた。
薄暗い埃まみれの準備室で狂ったように暴れ続ける錆びたロッカー。
ドンッ!ドンッ!
背後の錆びたロッカーから響く暴力的な音が密室の空気を激しく震わせている。
俺と佐倉は完全にその場に縫い付けられ、動くことすらできなかった。
ゆっくりと振り返った綾目先生の顔から先ほどの無表情が消え失せる。
代わりに浮かび上がったのは狂気すら感じさせるあのふんわりとした微笑みだった。
「あらあら」
彼女はまるでぐずる子供をあやす母親のような甘い声で呟いた。
「もうお腹が空いたのね」
その言葉の意味を理解した瞬間俺の全身の血の気が一気に引いていくのがわかった。
お腹が空いた。
それはつまりこのロッカーの中にいる『何か』が俺たちを餌として認識しているということだ。
綾目先生は俺たちを助けるために鍵を開けたわけではなかった。
ただこの部屋に獲物が閉じ込められているのを確認しにきただけなのだ。
「さあ二人とも仲良くしてあげてね」
綾目先生は開いたばかりの引き戸の取っ手に手をかけた。
そして薄暗い廊下へと一歩下がり俺たちを再びこの埃まみれの準備室へと閉じ込めようとする。
ギギギという立て付けの悪い戸の音が俺の耳には死刑宣告のように響いた。
「ふざけんな!開けろ!」
俺は我に返り閉まりゆく扉に向かって全速力で駆け出した。
だが一瞬早く綾目先生の細い腕が戸を完全に閉め切ってしまう。
バタンッ!
カチャリと外から無情に鍵がかけられる音が響いた。
「開けろ!ここから出せ!」
俺は狂ったように扉を叩き続けたが分厚い木とコンクリートは俺の叫びを無情にも跳ね返すだけだ。
背後ではロッカーの扉が今にも内側から破られそうなほど激しくたわみ軋み声を上げ続けている。
ガタガタガタッ!
錆びた南京錠が限界を迎え悲鳴を上げ始めた。




