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開かずの間

 翌日、昼下がり。


 俺は照りつける太陽から逃れるようにして、うちの高校の裏門へと向かっていた。


 夏休み真っ只中の校内からは吹奏楽部の音色やグラウンドを走る野球部の掛け声が遠く聞こえてくる。


 授業がないため校内にいるのは部活動の生徒だけだ。


 裏門の錆びたフェンスの影にはすでに佐倉の姿があった。


 昨夜のずぶ濡れの制服姿とは打って変わって今日は白のブラウスに清楚な膝下丈のスカートという真面目な私服姿だ。

 一応夏休みだが、私服で学校に入るのはいいのだろうか?


「遅いですよ、湊くん」


 彼女は俺の顔を見るなり優等生らしい硬いトーンでそう告げた。


「悪い。家を出るタイミングが難しくてさ」


 結愛の目を盗んで家を抜け出すのは想像以上に神経をすり減らす作業だったのだ。


 俺がため息をつきながら弁解すると佐倉はそれ以上追及することなく静かに頷いた。


「部活の生徒たちはグラウンドと新校舎に集中しています」


 佐倉の視線が木立の奥にひっそりと佇む古いコンクリートの建物に向けられた。


「私たちが向かうのはあの旧校舎です」


 現在は備品置き場としてしか使われておらず、取り壊しが噂されている不気味な廃棟だ。


「あんなところに何があるんだ? 」


 俺が尋ねると佐倉の横顔にわずかな緊張が走った。


「旧校舎の三階の奥の部屋に『開かずのロッカー』と呼ばれるものがあります」


 佐倉の声は蝉時雨の中でもはっきりと俺の耳に届いた。


「昔から鍵が錆びついて誰も開けられないと言われている古い鉄製のロッカーです。その中に私が探しているものがある、気がします」


「そんな学校の怪談みたいな場所になんであんたの探し物があるんだ?」


「……それを見つければすべてがわかります。でも私一人ではどうしても開けることができなかった」


 彼女の瞳には昨夜のコインランドリーで見せた脆さとは違う強い決意の光が宿っていた。


 彼女が背負っている小さなリュックからは動くたびにガチャリと鈍い金属音がかすかに聞こえた。


 おそらくバールか何か物騒な工具が隠されているのだろう。

 優等生らしからぬその重装備に俺は少しだけ息を呑んだ。


 夏休みのまぶしい日差しとは裏腹に俺たちは深い影を落とす旧校舎へと足を踏み入れた。


 埃っぽい空気とカビの匂いが鼻を突く。


 外で鳴っている部活の活気ある音がまるで別世界のことのように遠く感じられる。


 旧校舎は空気が淀んでいた。


 床にはうっすらと埃が積もり歩くたびに、俺たちの微かな足跡が残る。


 グラウンドからの野球部の掛け声もここまで来るとひどく遠く聞こえた。


「この奥の部屋です」


 佐倉が足を止めたのは廊下の突き当たりにある薄暗い準備室だった。


 立て付けの悪い引き戸を佐倉が両手で力を込めて、ゆっくりと開ける。


 ギギギという嫌な音が静まり返った旧校舎に響き渡った。


 部屋の中はカビと古い紙の匂いが充満している。


 窓には分厚いカーテンが引かれており、差し込む夏の光はごくわずかだ。


 暗がりの中にパイプ椅子や壊れた机が山積みにされているのが見えた。


 そして部屋の最奥に鎮座しているのが赤茶色にひどく錆びついた古い鉄製のロッカーだった。


「あれが……開かずのロッカー」


 俺が呟きながら部屋の中に足を踏み入れたその瞬間だった。


 バタンッ!


 背後で突風でも吹いたかのようなけたたましい音が鳴った。

 驚いて振り返ると、俺たちが今開けたばかりの重い引き戸が完全に閉まりきっていた。


「え……?」


 佐倉が小さな声を漏らす。


 カチャリ。


 それに続くようにして金属が噛み合う冷たい音がはっきりと部屋の中に響いた。


 俺は嫌な予感に急き立てられるようにドアへ駆け寄り、取っ手を強く引いた。


 ガタガタと音を立てるだけで戸はびくともしない。


「嘘だろ……開かない!」


 俺は焦って何度も力任せに戸を揺さぶったが結果は同じだった。


「落ち着いてください湊くん。古い建物ですから単に建て付けが……」


 佐倉も俺の横に並び戸の隙間に指をねじ込もうとするが無理だった。


 内側から鍵を開ける錠すらこの古いドアには存在しない。


 外から意図的に南京錠のようなもので施錠されたかあるいは完全に機構が壊れてしまったのか。


 どちらにせよここは完全に外との繋がりを断たれた密室だ。


 昨夜の結愛の部屋での恐怖がフラッシュバックして俺の背筋を冷たい汗が伝う。


 ポケットからスマホを取り出してみるが、旧校舎の分厚いコンクリートのせいか圏外のマークが非情にも点滅していた。


 薄暗い埃まみれの準備室。


 俺は昨夜とは違う得体の知れない恐怖と見知らぬ優等生と共に再び逃げ場のない密室へと閉じ込められてしまった。


 分厚いコンクリートが俺たちの声を完全に遮断している。


 外で鳴っていたはずの野球部の掛け声すら今はもう聞こえない。


 密室となった準備室には俺と佐倉の荒い呼吸音だけが嫌に大きく響いていた。


「閉じ込められた……誰かが外から鍵をかけたんだ」


 俺が掠れた声で呟くと、佐倉は無言のままリュックの紐を強く握りしめた。


 圏外のスマホをポケットに突っ込み、俺はもう一度ドアノブに手を伸ばそうとした。


 その時だった。


 カツン……。


 静まり返った廊下の奥から硬い足音が一つ鳴った。


 俺と佐倉は弾かれたように顔を見合わせる。


 カツン……カツン……。


 それは明らかにこちらに向かってゆっくりと歩を進めてくる足音だった。


 旧校舎の床を叩くその音はスニーカーや上履きのような柔らかいものではない。


 革靴かあるいはヒールのような硬質な材質がコンクリートにぶつかる冷たい音だ。


 こんな夏休みの旧校舎に部活の生徒以外の誰がいるというのか。


 教師の見回りだろうか。


 それとも俺たちの後をつけてきた何者かだろうか。


 足音は等間隔で少しずつ確実に俺たちのいる準備室へと近づいてくる。


 俺は息を殺し佐倉を庇うようにしてドアの前に立ち塞がった。


 カツン。


 足音がピタリと止まった。

 それは俺たちのいるドアの真裏。


 薄い木の板を一枚隔てただけのすぐそこだ。


 そこに『誰か』が立っている。


 圧倒的で不気味な気配がドアの向こうからじわりと滲み出してくるようだった。


 何か言葉を発するわけでもなくただそこに静かに立っている。

 ドアを開けようとする気配すらない。

 それが逆に俺の心臓を鷲掴みにするような強烈な恐怖を煽った。


 昨夜の結愛の狂気じみた笑顔が脳裏にフラッシュバックする。

 まさか俺のスマホのGPSか何かで居場所を突き止めて追ってきたのか。


 ドアの向こうにいるのは怒りと嫉妬に狂った義理の姉なのだろうか。


 ギシッ……。


 ドアの向こうで床板がわずかに軋む音がした。

 俺は全身の毛穴が粟立つのを感じながらただその得体の知れない気配から目を離すことができない。


 昨夜の結愛の狂気がフラッシュバックして呼吸すら上手くできずにいた。


 もしあそこにいるのがカッターを持った義理の姉だったら。


 そんな最悪の想像が頭を支配して一歩も動くことができなかった。


 だが俺の隣にいた佐倉は全く別のベクトルで動いていた。

 彼女は無言のまま背負っていた小さなリュックを床に下ろす。

 ジッパーを素早く開けると、中から鈍い光を放つ重々しい鉄の棒を取り出した。


 紛れもない本物のバールだ。


 優等生らしからぬ物騒な凶器を彼女は細い両手でしっかりと握りしめる。


「な……佐倉?」


 俺が掠れた声で問いかけると彼女は氷のように冷たい瞳でドアを見据えたまま言った。


「相手が何者であれここに閉じ込めた以上は敵対的と判断します」


 その声には一切の迷いも恐怖もなかった。


「ドア越しに奇襲をかけます。湊くんは下がっていてください」


 俺が止める間もなく佐倉はバールを高く振り上げた。

 古い木製のドアごと向こう側の人物を打ち抜くつもりのようだ。

 細身の彼女のどこにそんな力が隠されているのか。


 空気を切り裂くようにバールが振り下ろされようとしたその絶体絶命の瞬間だった。


 ガチャリ。


 静まり返った準備室に不意に金属の噛み合う音が響いた。

 外から鍵が開けられた音だ。

 佐倉の動きが空中でピタリと止まる。


 ギィィィ……。


 ゆっくりと嫌な音を立てて立て付けの悪い引き戸が開いていく。

 俺とバールを構えた佐倉は息を呑んでその隙間を見つめた。


 薄暗い廊下から差し込む光を背にしてそこに一人の人物のシルエットが浮かび上がった。


 俺の心臓が早鐘のように激しく打ち鳴らされる。

 開かれた扉の向こう側に立っていたのは俺の全く予想していなかった想定外の人物だったのだった。

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