深夜のコインランドリー
「だから、いいって。俺はもうずぶ濡れだし、あんたまで濡れるだろ」
俺は差し出された傘の柄を押し返すようにして、佐倉の厚意を固辞した。
すべてを失って泥水の中に沈んでいる最低な俺に、こんな見ず知らずの優等生の優しさなんて不釣り合いすぎる。
だが、佐倉は俺の拒絶を涼しい顔で受け流した。
「そういう問題ではありません。同じ学校の生徒が目の前で自暴自棄になっているのを見過ごすことは、私の良心が咎めますから、って何回言えば」
彼女の言葉は理路整然としていて、付け入る隙を与えない。
「だから、いいって言ってんだろ!」
俺は少し声を荒げ、強引に立ち上がろうとした。
「ダメです。このまま放置すればあなたは間違いなく体調を崩します。非合理的な意地を張るのはやめてください」
佐倉も負けじと傘の柄を強く握り締め、俺の前に立ちはだかる。
「放っておいてくれよ! 俺の勝手だろ!」
「勝手ではありません。あなたがここで倒れたら、発見した私まで面倒に巻き込まれる確率が高いですから」
俺が傘を押し退けようとし、佐倉がそれを防ごうと身を乗り出す。
激しい雨音の中、深夜の公園で奇妙な押し問答が始まった。
「いい加減にしろよ!」
「あなたこそ、大人しく傘に入りなさい!」
互いに傘の柄を掴み合い、力のベクトルが交錯する。
その時だった。
ビュオオオオッ!
吹き付けた突風が俺たちの間にある傘を容赦なく煽った。
「あっ……!」
「うわっ」
二人の手が同時に滑り、バサッという音と共に傘は暗い夜空へと無惨に吹き飛ばされてしまった。
「あーあ……」
俺はぽかんと口を開けたまま、闇に消えていく傘を見送った。
これで二人とも正真正銘のずぶ濡れだ。
俺は自分の最低な失恋の感傷にこの生真面目な優等生まで巻き込んでしまったことに、さらに深い自己嫌悪を抱きそうになった。
「……あなたのせいですからね」
佐倉が恨めしそうな声で呟いた。
彼女の整った前髪も、制服のブラウスも、すでに雨を吸って重たそうに肌に張り付いている。
「ごめん……弁償するから」
俺が力なく謝罪した、その瞬間だった。
バシャッ!
冷たい感触が俺の顔面を直撃した。
「……え?」
目を開けると、佐倉が両手をコップのようにして、水たまりの水を俺に向かって掬い上げているところだった。
「な、何すんだよ!」
「あなたが素直に傘に入らないから、私の制服まで濡れてしまったんですから。そのペナルティです」
彼女の表情は相変わらず淡々としていたが、その瞳の奥には微かな悪戯っぽい光が宿っているように見えた。
「ふざけんな!」
俺も負けじと両手で水を掬い、彼女に向かって思い切り撥ね返した。
バシャッ!
「きゃっ……! やりましたね」
佐倉は少しだけ目を丸くした後、すぐに反撃態勢に入った。
ザアアアアッという豪雨の中で、俺たちは泥水にまみれながら、子どものように水を掛け合い始めた。
「そっちが先にやったんだろ!」
「ペナルティだと言ったはずです!」
冷たい雨水が顔を打ち、泥が服を汚していく。
だが、バシャバシャと水を掛け合ううちに、俺の胸の中にあった重苦しい絶望の塊が少しずつ、本当に少しずつだが冷たい雨と一緒に洗い流されていくような気がした。
俺は深夜の公園で、顔も知らなかった優等生と、意味のわからない水遊びに興じていた。
泥水を掛け合い、髪も服もぐしゃぐしゃになった頃、佐倉はふうと小さく息を吐いて濡れた前髪をかき上げた。
「……風邪、引きますね」
冷静さを取り戻した優等生の一言に俺は思わず吹き出してしまった。
「誰のせいだよ」
「あなたが素直に傘に入らないからです。非合理的な行動の極みですね」
淡々としたどこかで聞いたことがある口調で文句を言いながらも彼女の表情は最初に出会った時の氷のような冷たさではなくどこか柔らかく解けているように見えた。
俺の胸の中にあった真っ暗な絶望の塊もこの意味不明な水遊びのせいで少しだけ温度を取り戻していた。
「とりあえずここを出よう。近くにコンビニとコインランドリーがあったはずだ」
俺たちは互いにずぶ濡れのまま深夜の街を歩き出した。
煌々と明かりが点くコンビニに駆け込み、俺たちは一番安い無地のTシャツを二着購入した。
そのまま隣の敷地にある24時間営業のコインランドリーへと転がり込む。
深夜のランドリーには誰もおらず、乾燥機の低く温かい音だけが室内に響いていた。
「上だけでも乾かそう。風邪引くからな」
俺たちはランドリーの隅で互いに背を向け合い濡れそぼった上着を脱いで買ってきたばかりの乾いたTシャツに袖を通した。
だが下半身だけはどうしようもない。
俺のズボンも佐倉の制服のスカートも雨水をたっぷりと吸って重く肌に張り付いたままだ。
濡れた上着をドラムに放り込みコインを入れるとゴォォォという音と共に機械が回り始めた。
「……なんだか滑稽な格好ですね」
プラスチックのベンチに並んで腰掛けると、佐倉が俺のシャツ姿と濡れたズボンを見てクスリと笑った。
「あんただって人のこと言えないだろ」
優等生らしい端正な顔立ちにコンビニの安いTシャツ。そして濡れて色の濃くなった夏服のスカート。
それは学校では絶対に見ることのできないあまりにもアンバランスで隙のある姿だった。
「……助かったよ。あんたがいなかったら俺、あのまま公園で死んでたかも」
回るドラムを見つめながら俺はポツリと本音をこぼした。
「自暴自棄になるほどの何かがあったということですか」
佐倉は俺の方を見ずにただ静かに問いかけてくる。
その適度な距離感と踏み込みすぎない声のトーンが今の俺にはひどく心地よかった。
「まあ……色々あってさ。全部俺が最低だっただけなんだけど」
結愛の狂気。自ら奪ってしまった唇。そして美咲ちゃんを絶望させてしまった俺の愚かさ。
すべてを話すことはできないが、この深夜の密室で隣に座る見知らぬ優等生になら少しだけ弱音を吐き出せそうな気がしていた。




